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そもアセクシュアルとは

Wikipediaの【無性愛】の項目には、アセクシュアルについて以下のような記述がある。

無性愛(むせいあい、英: asexuality)とは、他者に対する性的な惹かれ(性的魅力を感じること)の欠如、すなわち性的な行為への関心や欲求が少ないか、あるいは存在しないことである。

無性愛は、性欲自体がない無性欲や、性的行為に嫌悪感を抱く性嫌悪、性的欲求低下障害(HSDD)とは異なる。また純潔運動や不淫(禁欲)も意識的な行動であり、一般に個人の信条や宗教的信念などの要因に動機づけられる点で、無性愛とは異なる。

無性愛は、異性愛・同性愛・両性愛に並ぶ性質であると言われている。また、より幅広い領域にわたる様々な無性愛的なアイデンティティ(グレーアセクシュアル)を分類するための包括的用語としても用いうる。ブロック大学のアンソニー・ボガードは「世界人口の1%が無性愛者に当てはまる」と自身の著書に記している。

性的指向や科学研究の分野としての無性愛の受容はまだ比較的新しく、社会学・心理学的知見からの研究の蓄積は始まったばかりである。無性愛は性的指向であると主張する研究者もいれば、これに同意しない研究者もいる。

(中略)

他の性的指向に比べるとメディアでの紹介や法的保護の動きは遅れているが、英語圏では徐々に性的アイデンティティとしての地位を獲得しつつある。日本でも2000年代初頭からコミュニティ形成の動きが進んでいる一方で、研究やメディアへの露出は英語圏ほど活発にはなっていない。

(以上、Wikipediaより一部抜粋)

Wikipediaの言に従うなら、恐らくワタクシは紛う事無くアセクシュアルなんだろう。
誰に強要された訳でも無く他人に性的な魅かれを生じず、無理に情事に及ぼうとすると激しい虚無感と疲労感を覚える(若い頃、友人のつき合い等で数度風俗店に足を運ぶ機会があったが、結果は前述の通りである)。然し完全に性的な能力を失っている訳では無い(初老の男のシモの話に需要があるとは思えないので、具体的には伏せる)。
自身の色恋沙汰には全くリソースを割けない一方で、他人の色恋沙汰を俯瞰して物語と捉えるのは寧ろ好きな方だ。ヌードグラビアは生々しいのでご遠慮願いたいが、軽度なお色気程度なら然程抵抗は無い(この辺は過去記事【感覚のズレ】も併せてご覧あれ)。これについては「多分アセクシュアルとしては程度が軽いのだろうな」と思うようになった。理由は後述する。

アセクシュアルと言う概念は、その性自認を有する人の思考により細分化が為される性質のものであるらしい。
アセクシュアルと並ぶ、他者への惹かれを生じない性嗜好である【アロマンティック】(恋愛にリソースを割けない性自認)との境界線は明確ではない。アセクシュアルとアロマンティックの間に、更に性愛や恋愛に対する考え方により幾つかの概念が存在する(列挙すると長くなるので割愛する)。
極端なアセクシュアルの中には、色恋沙汰の一切合切を穢らわしいモノとして徹底的に忌避する人が居る。そして、そうしたアセクシュアルの自認は、時としてマジョリティや他の性的マイノリティに対する激しい攻撃性・排他性となって具現化する。こうなると、最早性嫌悪との差別化は困難だ。
ワタクシ自身、他者に対し排他的な極論保持者のアセクシュアルに執拗に攻撃を受けて疲弊していた性的マイノリティの方から「あなたのように他人の性的嗜好にとやかく言わないアセクシュアルは初めて見た」とカムアウトされたのは一度や二度ではない。こんな言葉を聞かされるのも、ワタクシがアセクシュアルとしては比較的軽度だからなのだろうと思う訳である。

性嫌悪とアセクシュアルは異なるものとWikipediaは説くが、一元に語るのは難しいような気がする。
そもそも【性】と言う概念もなかなか奥が深いものだ。睦み事ひとつ取ってもなかなか簡単に、単純に割り切れる話ではない。
恋愛と言う概念そのものが、生物学的見地から言えば生殖行動のひとつであるのだから、同じく生殖行動のひとつである性愛、睦み事とは表裏一体とも言える関係だからだ。
例えば、ハゲワシやウサギの仲間にはつがいとの絆を深める為だけに、複雑なディスプレイを伴う生殖に繋がらない交尾を頻繁に繰り返す種類が少なくない。ボノボ(ピグミーチンパンジー)は怒りの感情が湧き上がるとそれを本能的にリビドーに変換し、同性・異性の別を問わず儀礼的な交尾(ホカホカと呼ばれる)を行う事で群れの平和を維持する。
況してや人間に取っての睦み事は、野生動物の儀礼的交尾以上に、遥かに複雑な意味が絡んでいるのだ。
カップルの絆を深める、怒りの情をリビドーに置き換えて互いの体を貪るのは勿論の事、策略の一環(所謂【美人局つつもたせ】)だったりスクールカースト上位者によるマウンティング目的の強姦だったり(アメリカで非常に問題になっている)、かと思えばポリネシアンセックスのようにほぼ精神的な睦み合いで殆ど肉体的な交わりを伴わないものもある。
性嫌悪や、睦み事に対し攻撃的なアセクシュアルと言う概念が生まれるのは、人間の睦み事が様々なイメージを孕んで居る事にも起因するのだろう。

日本でアセクシュアルについて言及されるようになって、そう言えばまだ20年そこそこしか経って居ないと言う事になる。アセクシュアルの定義の明確化や巷間への浸透には、まだまだ時間がかかるだろう。

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