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小さな猛獣

(ヘッダー画像はウィキメディア・コモンズより借用)

今泉忠明博士は自著で、イヌの事を【人為的猛獣】と呼んでいる。オオカミの一種を祖先に改良されたイヌは、今や世界のあちこちに存在し、それぞれの地域で野生化して問題になっている。
例えば中国では最近、大型犬のティベタン・マスティフが野生化してブルーシープやヤク等の野生動物にとっての脅威になっているばかりか、同じ生態的地位にあるユキヒョウの生存をも脅かして居ると言う。

オオカミから改良され、家畜化の過程でオオカミが有する【リミッター】が退化した動物だけに、野生化した大型犬程危険な存在もそうそう居ないだろう。組織だった群れで大型動物を道楽半分で狩り、時にはヒトにも危害をもたらすからだ。狂犬病と言う予防不可能な伝染病のキャリアーとしても無視出来ない。日本では昭和時代に【野犬狩り】が徹底して行われた為、現在、表向き野犬は居ない事になっているが、富士山麓や北海道の原野にはまだ生き残りが居るとも言われる。

近頃は大型犬を飼う愛好家も稀になった。管理が大変だからだろう。街なかでハーネスに繋がれて飼い主と散歩しているイヌは大抵テリアやプードルと言った小型犬ばかりだ。

近所に小型犬を複数飼っている老婆がいる。
時折散歩をさせている光景に出くわす事がある。正直、あまり良い気分はしない。老婆が飼っている小型犬の中にチワワが一頭居るのだが、何故かこのチワワだけハーネスをつけず"放し飼い"ならぬ"放し散歩"なのが原因である。
当然ながら、ハーネスの拘束が無いチワワは思うがままにはね歩き、時には見知らぬ人に吠え掛かったり足元をぐるぐる彷徨いたりする。ワタクシも数度やられた。
その度に老婆は「大丈夫ですよ」と言うだけで決してテンションがあがったチワワを御そうとはしない。はっきり言って非常に迷惑だし、ワタクシとしては緊張が解けない。松葉杖無しでは歩けないこの身、素早くチワワから距離を取る事が出来ないからだ。もたもたしていてふくらはぎをガブリとやられでもしたら…と思うと気が気じゃない。小型犬だからと言って侮ってはならない。チワワ程に小さなイヌでも、本気で噛みつけば牙がデニム生地のズボンを貫通し深傷になる位のパワーがあるからだ。

そもそも、チワワが何故【家畜犬の中で最も体が小さい】のか、日本のチワワ愛好家は知っているのだろうか。
チワワが小さい体を持つのは、単にその姿を「かわいい」と愛でる為では無いのである(尤もワタクシはチワワを「かわいい」とはどうしても思えないのだが)。

チワワは、元々はメソアメリカで先住民が飼育していた【テチチ】と呼ばれる小型犬を起源とする。このテチチと呼ばれる犬種はメソアメリカの先住民の間では食用とされたり、ヒトの罪を贖う為の生贄として用いられた事が記録に残されている。残された記録は少なく詳しくは知られていないが、当然狩りの供としても大いに用いられただろう。
やがて時代が下り、メソアメリカに存在した複数の国家がスペインの侵攻により滅亡すると、テチチはアングロアメリカに持ち込まれ、愛玩犬として改良された。チワワと言う犬種名は、この犬種が生み出されたメキシコにあるシーワワーと言う地域に因む。
折しも、チワワが犬種として固定された辺りから、限られたスペースでも飼育出来る小型犬が求められるようになった。そんな時代の流れを受け、チワワはどんどん体が小さくなるように改良されていったのである。その結果チワワは、相対的に大きな目とイヌとしては短過ぎる吻部と言うアンバランスなビジュアルに変貌したのである。

玩物喪志の極致みたいなチワワだが、一方でこの犬種はなりの小ささに似合わぬ獰猛な性質で知られる。しばしば自分より大きな相手に攻撃を仕掛け、時にはそれが災いして命を落とす事がある。トビ等の猛禽類やアライグマが外飼いのチワワと争い、最終的に獲物にしてしまう事例が時々聞かれるが、それと言うのもチワワが恐れ気無く相手に攻撃を試みるその性質からの結果のようである。

チワワや原種のテチチについてはともかく、実はイヌは大型種よりも小型種の方がより獰猛だったりする事がままある。それは彼等が元々狩猟用に作出された犬種だからである。
例えばプードルは、嘗ては鴨狩りの共として無くてはならない存在だった。ライオンのタテガミを思わせるあの独特な被毛のカットのスタイルは、撃ち落とされた鴨を水中から拾う際に心臓麻痺を起こさないよう、心臓部を冷やさない為にあのようなスタイルになったとされる。
他にもテリアの仲間には、ネズミ捕りに特化した犬種も複数知られているし、チワワに次いで人気なダックスフントに至っては【穴に籠もったアナグマを引き摺り出す】目的であの胴長短足な体型に改良された…と言うのは有名な話だ。
小型犬では無く中型犬の扱いになるが、日本の在来犬種で一番小型な柴犬に至っては、単体でレトリバー犬を殺傷する膂力を持っている。いや、その気になれば数頭の群れでツキノワグマ位は屠れよう。嘗て地方ではイヌは放し飼いが当たり前だったが、それは偏に【クマ避け】が目的だったのである。

現代日本で、小型犬の歴史を正しく理解している方が果たしてどれ位存在するのか。もしかしたら殆どの人がそんな事にはお構い無しなのかも知れない。そうして狩猟犬だった頃の記憶が拭いきれない小型犬や攻撃性が完全に払拭出来てないチワワは、今日も日本の何処かでイヌが苦手な人に唸ったり牙を剥いたりしているかも知れないのである。

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