見出し画像

ニューオリンズでジャズが生まれる前のはなし

 エイハブはアッシュ・リンクスの生まれ故郷ケープコッド沖にあるナンタケット島から、捕鯨船ピークォド号を駆って白鯨を追い、ホーン岬周りで西へと向かう。アメリカの捕鯨船が日本近海で捕鯨を始めたのは1820年頃だからエイハブがやって来たのもその頃だろう。
 当時日本は徳川幕政末期。明治維新まで半世紀を切っている。まだ鎖国時代であるにもかかわらず、遥か異国からやってきた捕鯨船員は既に日本の漁師達と海上で頻繁に交流をしていた。アメリカ人の目的は補給だが、漁師達が水や食糧と引き換えに得た珍奇な品物は持って帰れば高く売れる。もちろんご法度である。そんな中、遭難した日本の漁師達が圧倒的な航海技術を持つ捕鯨船に救助される事例もしばしばあった様だ。
 その様な状況は勿論おサムライ様には不都合極まりない。彼らは日本を侵略しようとしている異国の間者かもしれないではないか!(「神州」は所詮自称に過ぎないと判ってしまう…)彼らの異人に対する妄想的な被害者意識は志村けんの握りしめる風船の如く膨らんでいく。その病的な憎悪にドライブされて爆発する尊王攘夷な愛国カルトがやがて明治維新を導くのだが、「おらがくに」からいきなり国民国家を立ち上げるにはそんなカルティックなエネルギーも必要だったのかもしれない。尊王攘夷思想が如何にゼノフォビックな半ば被害妄想じみた熱狂にドライブされたシロモノだったかを鑑みれば、その子孫たる現代の「愛国」思想がどの様なモノかは自ずと明らかというものだ。
 話を捕鯨船に戻すと、前述した様に遭難した中浜万次郎が捕鯨船に救助される1841年以前にも同様な救助例はしばしば有った。恐らく記録に残っているものなどほんの僅かで、知られていない救助譚も多々あったのではないだろうか。彼らの多くは鎖国していた日本政府に帰国を禁じられ、棄民されて異国で一生を送る事になるのだが、記録にないその中にはアメリカ捕鯨船に乗って日本の遥か東にある大陸の土を踏んだ者もいるのではないかと想像してしまうのである。
 そんなわけで、エイハブ船長がナンタケットに帰る途中で拾った日本人が、新大陸最大規模だったニューオリンズの奴隷市場に売りに出されたころ、まだアメリカになったばかりだった当地の音楽事情はどんなものだったのだろうか。

◯ニューオリンズの形成〜フランス植民地の特殊性〜

 ニューオリンズは元々ラ・ヌーベル・オルレアン、ルイジアナ(1682年成立)と呼ばれたカナダからメキシコ湾に渡る広大なフランス植民地の首府であった。メキシコ湾に面するミシシッピ河口の港町であり、合衆国最南部でありながらカリブ海文化圏の北限にあたる。アメリカ南部と言えばバイブル・ベルトとも呼ばれ、カルトな宗教原理主義者が思い浮かぶが、イギリス人が設立した他の植民地と異なり、宗教的にはカトリックベースの些かおおらかな土地柄だった様だ。入植者の子孫はクリオールと呼ばれたが、これは元々人種的概念ではなく、両親が白人であっても白人領主が黒人奴隷との間にもうけた子どもであっても区別無く、入植者の子孫はすべからくクリオールだった。彼等は肌の色が黒くとも白人に次ぐ権利を持つ人々として明白に黒人と区別され、白人と同等の高等教育を受ける。このことによりニューオリンズでは白人とはまた違った特権階級が生まれる事になるのである。
 クリオールの特権は1803年にナポレオンによりルイジアナがアメリカに売却された後も維持された。この頃からクリオールとはフランスやスペインの入植者と黒人の混血、またその子孫でフランス語を話す「自由黒人」を指す言葉に変わっていったようだ。
 そしてこの頃、ニューオリンズにおけるアフリカ-フランス文化の影響を決定的なものとする歴史的事件が発生している。ハイチ革命である。

◯ハイチ革命~奴隷経済による資本蓄積の一つの帰結~

 ハイチはニューオリンズから南東に2,169 km(グーグルマップ調べ)、カリブ海のキューバとプエルトリコに挟まれたイスパニョーラ島にある国だ。島東半分が元スペイン植民地ドミニカ共和国、西半分が元フランス植民地サン・ドマングのハイチ共和国である。
 意欲に燃えるコロンブスがこの島で黄金を発見してしまったことからスペインの植民拠点とされ、その結果コロンブス以前に20~30万人いたとされる先住民はたった100年でほぼ絶滅する。歴史上まれにみる大殲滅である。
 その後ハイチはフランスの手に渡るのだが、カリブ海の島々ではヨーロッパ各国により激減した先住民族に代わる労働力として、アフリカから強奪してきた黒人奴隷を使役した大規模な砂糖プランテーションが展開されていった。イギリスのジャマイカ、バルバドス(チャーリー・パーカーのブルースのタイトルにもなっている。2021年11月30日に漸く英連邦王国から共和制になった。因みに動詞の「barbados」には「強制労働に徴収する」という意味がある。)、スペインのドミニカ、キューバ、また島ではないが、ポルトガルによるブラジルなどである。ハイチはその中でも当時世界の砂糖の40%を産出していたといわれるフランスにとって最重要植民地であった。
 資本主義に先立つ重商主義時代、先住民を殲滅し、黒人奴隷によって生産された砂糖や綿花はやがて、ヨーロッパの市民階級による富の蓄積を可能にし、市民革命・産業革命、そしてイギリスで人類史上初めて起こった人口爆発を導く。イギリスは激増した人口を移民として世界中に送り出し、また紅茶に入れる砂糖はプロレタリアートのライフスタイル形成に多大な影響を及ぼす事となる。さらに彼らは、嘗て世界最大の奴隷貿易港だったリヴァプールに於いて、奴隷の子孫の音楽をコピーした史上最強のポップスターまで生み出すのだ!アフリカから盗み出した人間から彼らの音楽までも盗むに至ったわけである。プロテスタントの倫理が資本主義の精神を育む以前に、先住民や黒人奴隷の地獄の苦しみと屈辱が、近現代の社会とポップカルチャー成立の前提となったことは忘れられるべきではないだろう。
 話を戻して、そんなハイチの黒人奴隷達は、ヨーロッパがギリシャ・イスラムの影響下に展開したルネッサンスの到達点にして、人類史上空前絶後の価値創出の結晶、フランス「人権宣言」に思想的影響を受け、その2年後の1791年に反乱を起こす。ナポレオンはイギリスとの対決が迫る中でコレの鎮圧に失敗し、その結果ルイジアナを維持することが出来なくなるのである。ナポレオンは「新世界」に植民地帝国を建設することを断念し、1803年にルイジアナを合衆国に売却、ハイチは1804年にフランスからの独立を宣言する。黒人奴隷による最初で最後の国家建立であり、「新世界」においてはアメリカ合衆国に次ぐ独立国であった。
 ハイチに在住していたクリオールやハイチ白人社会の恩恵を受けていた自由黒人たちは、ハイチ革命が起きたことによって身の危険にさらされ、所有する奴隷たちと共にキューバやフランスへ避難する。そして合衆国で最大の受け入れ先となったのが、既にフランス語話者のコミュニティが確立していたルイジアナ、ニューオリンズであった。ウィキペディアによると1万人程度だったニューオリンズの人口はハイチからの避難民よって倍増し、黒人は全人口の63%にまで登ったとされる。これによりニューオリンズにおけるアフリカ-フランス文化の影響が決定的なものになるのである。
 黒人奴隷の強制労働が、産業革命、フランス革命を準備し、ルイジアナ買収、ハイチ革命を導き、さらには現代に続くニューオリンズ文化の礎を作った。そしてその先に我々の聴くジャズがあるという事はもっと強調されても良いだろう。ジャズは黒人の生み出した音楽であるということは、黒人の奴隷労働なくして生まれ得なかった音楽であるという事でもある。それはジャズが「黒人が演奏した音楽」であるという事以上のことなのである。
 やがて維持費の掛かる奴隷労働より安価なプロレタリアートを使役した方がコストパフォーマンスが良いと気付いた資本家達は、人権を口にしながら奴隷制を廃止していく。しかしそれも先述した人口爆発を背景にしたものであった。
 ハイチ共和国はその後、ドミノ理論的に奴隷革命が勃発する可能性に恐怖する諸外国から、国際会議にも参加を許されない等差別的で不当な扱いを受け続ける。またプランテーション開発に伴う環境破壊の後遺症も相まって社会の発展が著しく阻害され、その苦難の歴史は現在も続いている。治安は崩壊し、2021年には大統領が暗殺されたのは記憶に新しい。
 一方フランス革命の薫陶を受けたハイチ難民の子孫は、後の合衆国での公民権運動に大きな影響を及ぼすこととなるのである。

 さて、19世紀ハイチ革命後、水戸沖辺りでナンタケットに帰る途中のエイハブに拾われた漁師がニューオリンズの奴隷市場に売りに出されたころ、ニューオリンズでどのような音楽が奏でられていたのだろうか。そしてそれらの音楽はどのような土壌で育まれていったのだろうか。

◯コンゴ・スクエア

 18世紀、ニューオリンズの黒人奴隷たちは、フランスの法律に基づき日曜日は休日として自由な活動を許されていた。彼らは様々な場所に集って市場を開催し、余暇に作った商品を売り(黒人奴隷は貯めた金で自由を買い取り「自由黒人」になることも出来た)、音楽やダンスに興じていた。反乱の恐れがある黒人奴隷が自由に集まって集会を開くなどという事はアメリカの他の地域では決してあり得ないことだった。ニューオリンズならではの緩さと言えるだろう。
 19世紀になってもこういった黒人の権利は維持されていたが、ルイジアナのアメリカ買収後、アメリカ化の進行とともに規制が強化されていく。そして1817年、市内の様々な場所で開催されていた日曜日の集会はコンゴ・スクエアのみに規制されることとなる。しかし、集会が許されるのが唯一コンゴ・スクエアのみになったことにより、そこには一度に数百人の黒人が集うようになり、ニューオリンズの音楽コミュニティ、黒人サブカルチャーの中心地として全米で有名になったのである。
 そこではハイチ難民の黒人たちからもたらされたアフリカのドラムやフレットレス・バンジョーによる音楽やダンス、またブードゥーのパフォーマンスが観光客たちを楽しませていたのだった。そしてアフリカ起源のバンジョーやドラムとヨーロッパ起源のフィドルやタンバリンなどが同時に演奏され、音楽的な融合が行われていた。これは当時のアメリカにおける最先端の音楽スタイルだったに違いなく、観光客や港湾労働者を通じ、ニューオリンズの港から、またミシシッピを北上して、全米にその評判と影響を広げていったと言われている。そして白人と肩を並べてクラシック音楽を学んでいたクリオールたちも、毎週日曜日に広場から聞こえてくるリズムと音楽に強力な影響を受けていく。エイハブに拾われた日本人漁師がニューオリンズにたどり着いたとしたら、聴いたのはこれらの音楽だっただろう。
 コンゴ・スクエアでの青空市場はフランスの慣行を認めない政府の締め付けにより20年ほどで衰退し、1856年頃には広場で黒人が楽器を演奏することも禁止されてしまう。しかし音楽の伝統は人々の間で脈々と引き継がれ、南北戦争後、レイシストによるバックラッシュが吹き荒れる前のリコンストラクション時代に、黒人を含む人々の間で流行り始めたブラスバンドが再度コンゴ・スクエアで演奏を始めるのである。そしてそこに1884年のニューオリンズ万国博覧会を契機としたメキシコのブラスバンド人気が大きな音楽的影響をもたらすこととなる。合衆国の南、カリブ海周辺地域から影響を受け続けた歴史から「ジャズはラテン音楽の一種である」という人もいるぐらいだ(先述のパーカーのブルース「Barbados」のリズムを思い出してみよう)。
 この頃のニューオリンズでどの様な音楽が奏でられていたか、もはやその音を聴くことはできないが、記事にしたためた新聞記者がいた。小泉八雲ことラフカディオ・ハーンである。1881年に彼が音楽評論家の友人に宛てた手紙には次のように記されている。

「ニグロが楽譜に頼らないでピアノを演奏するのを聴いたことがあるかい?この街には何人か面白い連中がいる。黒人クレオールだ。たまに彼らにボトルワインを奢って我々の所に来てもらい、演奏してもらうこともある。彼らはピアノをまるでバンジョーのように演奏するんだ。あれはバンジョーの演奏としては優れているかもしれないが、まともなピアノの演奏とはいえないがね。」(『アメリカ音楽史』大和田俊之)

 ハーンが聞いた音楽は恐らくラグタイムかそのプロトタイプの即興演奏だろう。南北戦争後のバックラッシュが始まり、後に「キング」と称される最初のジャズミュージシャン、バディ・ボールデンはまだ4歳の頃だ。ラグタイムが台頭するのはこの少し後、当時はまだギターはそれほど普及しておらず、弦楽器と言えばフィドルか黒人がアフリカから持ち込んだバンジョーで、室内楽はピアノミュージックが主流だった。
 宗主国だったフランス、スペインのフォークソング、ブラスバンドの伝統、フランス語コミュニティを通したフランス・クラシック音楽、ハイチ難民からのアフリカ音楽、ジャマイカ、キューバ等カリブの島々のリズム、メキシカン・ブラスバンド、スコティッシュ・ハイランダー、そして先住民、ありとあらゆる人々から影響を受けて作られていく彼らの音楽は、20世紀初頭にやがてジャズと呼ばれるようになるのである。(蛇足だが、スウィングのリズムは、中世欧州における傭兵の輸出地域だったスコットランド高地の戦闘民族が、フライドチキンと一緒にアメリカ南部に伝えた可能性が高いらしい。彼らがトランプの鉄板支持層・ホワイトトラッシュの源流である。)

 さて、ここで高橋健太郎氏が、『レコード・コレクターズ』誌に執筆した記事を参考に、19世紀末にニューオリンズに生きた1人の女性とその系譜に焦点を当ててみたい。名前はマリー・セリーナ・デスデューン。マミー・デスデューンとして知られる8本指のピアニストである。

◯デスデューン家の人々

 ハイチ共和国大使館のサイトによると、マミーの先祖はハイチから革命を逃れて海を渡ったクリオールの一人だったらしい。デスデューンという地名がハイチに残っているので出自がハイチだということは間違い無いだろう(フランス語では「デイドゥーン」と発音するらしい)。祖父はジェレミー・デスデューン、父親はルドルフ・デスデューンである。
 ジェレミーは1817年に始まるコンゴ・スクエアの音楽を聴いて育った世代だ。ハイチから渡ってきたのはジェレミーの親か祖父母世代だろう。ルドルフは歴史家、詩人であり、ニューオリンズの公民権運動のリーダーの一人として名を留めている。1849年生まれなので南北戦争終了時には16歳。戦後のリコンストラクション時代、開放感溢れた雰囲気の中で青春を過ごしたのだろう。
 しかし1877年、リンカーンの党による南部再建は失敗に終わりバックラッシュが始まる。南部諸州は次々とジム・クロウ法を定め、黒人差別が激化したのである。そして「黒人の血が混合している者は全て黒人とみなす」という所謂「ワンドロップ(血の一滴)・ルール」により、それまで白人と同等の権利を享受していたニューオリンズのクリオール達も苛烈な差別の対象とされた。クリオールの没落の始まりである。ルドルフはそのような状況下で1896年のプレッシー&ファーガソン裁判(ローザ・パークス事件の背景にもなった公共交通機関の人種分離政策の違憲性を問うた裁判。原告敗訴によりレイシストに法的なお墨付きを与えることになった。)などで公民権運動の活動家として活躍したのだった。
 マミーの兄、ダニエルは1870年頃の生まれ。バイオリンや金管楽器全般をこなす著名な音楽家でありバンドリーダーであった。また父と同様公民権運動の活動家でもあり、プレッシー&ファーガソン裁判では結構重要な役回りを演じていたようだ。クリオールが没落しつつある時期に青年時代を過ごしているが、自身はまだニューオリンズのアッパークラスに属していたと思われる。最も初期のジャズミュージシャンの1人でもあり、1892頃には既に「スィングするビート」で演奏していたとの証言もある。また1917年のコンサートでは「Desdunes’ Jazz Orchestra」名義で出演している。ジャズのクラシック音楽からの影響は白人からでは無く、ダニエルの様な上流階級に属したクリオールからもたらされたのである。
 マミーは1879年生まれ。ダニエルの母親違いの妹だ。彼女はジェリー・ロール・モートンにブルースを教えた人物として知られている。父親とは別居し、母親のクレメンタイン・ウォーカーの元で育った。高橋健太郎氏によると彼女はクリオールの栄華を知らないロストジェネレーションとのことだ。白人レイシストによるバックラッシュによりニューオリンズのクリオール達は既に苦難の時代を生きており、マミーも経済的には苦しい状況だったようだ。ミュージシャン仲間だったバンク・ジョンソンはこう証言している。

“She was a hustling woman. A blues-singing poor girl.”

 マミーは14歳の時に列車に轢かれ右手の指2本を失う。それでもダニエルの様な正式な音楽教育も受けずにピアニストになったのだから才能も有り努力もする人だったのだろう。また、当時はミュージシャンという職業が女性が自立して暮らせるぐらいには需要があるものだったのだろう。
 モートンは1890年生まれ。バディ・ボールデンより13歳年下のピアニストだ。彼もまた没落クリオールである。音源の残っていないボールデンと異なり多くの録音を残した、自称「ジャズを創った」男であり、その是非はともかく、ニューオリンズでジャズが生まれた時にそこに立ち会った人物には違いない。マミーとモートンは隣人だった。少年だったモートンは父が商売に失敗し、母も早くに亡くした為、セントラル・シティの祖母の家に身を寄せる。マミーはその隣2軒先に住んでいたのである。モートンは近所のお姉さんであり先輩ピアニストだったマミーに多大な音楽的影響を受けたのだろう。そしてそこで、マミーがピアノで弾き語る三行詩12小節の不思議な音楽を初めて耳にするのである。
 テネシー生まれのトランペッター、W・C・ハンディがミシシッピ州のタトワイラー駅で「ナイフを使ってギターを弾く男」に出会ったのは1903年。これがアメリカ文化史に於ける「ブルースの発見」ということになっている。ハンディはその後、ブルースをシートミュージックとして売り出し、「ブルースの父」として大きな名声を得る。しかしその音楽は、ハンディが「発見」する以前に、既にニューオリンズの最先端の音楽スタイルを追う若者達の間で、演奏され歌われていたのである。
 マミーはダニエルの妹としてプロト・ジャズにも親しんでいただろう。そして薄幸な愛人の娘として、マージナルな者の常がそうである様に、ミシシッピ・デルタから川の流れに乗って港町ニューオリンズにもたらされた、最先端のユースカルチャーにも親しんでいたのだ。彼女が初めてブルースを聴いたのはおそらく1890年代のことだろう。そして同い年のバンク・ジョンソン達とブルースを演奏していたのだ。
 高橋健太郎氏の論考ではその後、ブルースは最初に誰が演奏したのか、なぜその時代〜奴隷解放後〜、その場所〜ミシシッピ・デルタ〜でだったのか、を推理するスリリングな展開となるのだが、ここでは書籍化が待たれると言うに留めておこう。
 その後モートンは、買春宿でピアノを弾く仕事を始めたことで誇り高き没落クリオールの祖母に激怒され、勘当されてしまう。しかし、そこからモートンの偉大なキャリアが始まるのである。そしてマミーは1911年、32歳の若さで結核で他界する。『Mamie's Blues』はモートンが後年、マミーに教わった曲を思い出しながら演奏したものだ。もし彼がこの曲を忘れていたら、彼女は歴史の彼方へ埋もれ、忘れ去られていただろう。

◯謎の音楽、ジャズ

 色々脱線した気もするが、僕がニューオリンズに不思議を感じてから、少しずつ調べたり考えて来たジャズの起源を巡っての考察も一旦この辺りまでとしよう。
 ジャズはハイチからのクリオール難民によって、そして彼等が奴隷解放後、皮肉にも再度マイノリティ化した時に創られた。それは、ヨーロッパの白人達の作り上げたグローバルな経済体制によって、住んでいた土地から拉致され、苛烈な暴力に晒され、レイプされ、名前を奪われ、家畜とされ、つまり「奴隷」とされた人々が、自由の為に立ち上がり、遂に自分が再び自分自身の主人であることを勝ち取った戦いの1つの帰結でもあったのだ。
 そして、クリオールが創造したラテン音楽であったジャズが、嘗て自分達を難民に追いやった「奴隷」の子ども達が創った音楽、ブルースと出会った時、ジャズは世界音楽としてのポテンシャルを獲得したのでは無かったろうか。コーダルでありながらモーダルな不思議な12小節の三行詩が、ジャズを陽気なブラスバンドの音楽にとどまらない、多様な可能性に開かれ謎に満ちた音楽に変えていったのではないだろうか。もちろんその過程には、差別しヘイトしあっていた両者が和解する契機があったに違いない。僕はそんな風に想像してしまうのである。
 そして僕は、ジャズとブルースの出会いを演出した女性が、飛び抜けた技量や革新性とはさほど縁のない、たった1曲のブルースを残し早逝した無名のピアニストだった事が、その謎を象徴している様にも思えるのである。



※参考文献

『尊皇攘夷 水戸学の四百年』片山杜秀
『ハイチの栄光と苦難―世界初の黒人共和国の行方』浜忠雄
『砂糖の世界史』川北稔
『奴隷船の世界史』布留川正博
『資本主義と奴隷制』エリック・ウィリアムズ(中山毅訳)
『ジャズの歴史物語』油井正一
『Flygirl』Sherri L. Smith
『ヴィクター・ハーバートから夢綴るロスト・アメリカーナ』髙橋健太郎(『レコード・コレクターズ』2019年11月号〜2021年1月号)

※ウィキペディア
「ハイチ革命」「ルイジアナ」「History of New Orleans」「Congo Square」「Dan Desdunes」「Bunk Johnson」等の項

※参考ウェブサイト
“New Orleans Historical”
https://neworleanshistorical.org/

“Congo Square: La Place Publique”
https://64parishes.org/congo-square-la-place-publique

“RODOLPHE LUCIEN DESDUNES”
https://www.haiti.org/dt_team/rodolphe-lucien-desdunes/

“The First Blues Artist We Know — Mamie Desdunes”
https://medium.com/@Scribblingsnook/the-first-blues-artist-we-know-mamie-desdunes-aafb8c98c423

“Ragpiano.com”
http://ragpiano.com/comps/desdunes.shtml


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?