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遠近法と孤独

「旧約聖書」の「約」は「契約」である。「契約」である以上、そこには契約する者とされる者とが前提されていよう。いうなれば、やがて「主体」「客体」という明確な二元論として現れるところのエートスがそこに見て取れるのであり、そこから「対象化」による「観察」と「客観」的な「記述」が始まれば、近代科学までは最早一歩である。近代合理主義の出自は、やはり西洋の文化的エートスにあろう。


 大きな休みを頂戴した際には東京や名古屋に赴き、音楽会だの美術展だのに出かける。芸術への素直な関心でもなければ、理解でもない。むしろそこに自らの才覚の及ばぬ「他者」を直観し、情景するのだ。どうやら「直観」はおおよそ私の内には正しいようである。尤も忘れ難い印象は作品の外に刻まれてしまった。


 「事件」は三菱一号館美術館で起こった。「一枚やると言われたらどれを貰うか」と他愛ない問いを問いつつ「こりゃあ部屋には掛けとけないな」と思ったことだ。都会の駅の雑踏で突然独りになる。天井の高い展示室で幾枚もの名画に囲まれてその真ん中で、感じたことはそんなことであった。これは芸術を理解すべき能力の欠落として、私に憑くことになる。


 しかし事はそう単純でもないのかもしれぬ。遠近法すなわち一点透視図法は静止する主体の眼前に広がる対象の観察に基づく。ガリレオの相対論に等しいこの構造には、従って主客の分離がある。画家自身は画面には登場し得ない仕組みである。

もしも画面に画家本人が描き込まれていれば、それは何かパラドキシカルな印象を与えずにはいないだろう。逆説を用いなければ観る者もまた画面から、言い換えればそのように把捉された世界から疎外されてしまうというのなら、あのときの私の「孤独」は近代文明の宿命たる「疎外」として想起されなければならない。

 先年、文徴明の「雨餘春樹」を見た。何故か集中できず、何度も引き返して十遍は見た。静止する視点が不在だからか。「絵」としてどうなのか。やはり己の感性を疑いつつ、随分縦に細長いものだが、もし私が描いたら長方形の絵の継ぎはぎになるのだろう、そんなことばかり考えていた。しかしその絵は忘れ難いものとなった。

敢えて言えば、浮遊する目玉が絵の内部を彷徨するが如く、そしてそれは同時にまことに当たり前の目玉であったことである。

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