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1日遅れの父の日のプレゼント

昨日は父の日だったんだけど、息子から見た「父」へのプレゼントの調達に手間取り、私の「父」へは、

「手配遅れたけど、いつもみたいに野菜ジュースでよい?」

というメールを送っただけだった。

今朝になり、

「メール今見たよ。すぐに気づかなくてごめん。いつも気遣いありがとう」

と電話があり、申し訳ない気持ちになった。

「忙しいだろうし、もしよければこっちで買わせてもらうよ、近くの店で買って配達してもらうこともできるから」

と言われて、さすがにこういう時に実家に行かないと行く機会がないなと思い、

「今日、後で行くよ」

と答えた。

実家へは、徒歩で30分くらい。自転車なら15分だ。

私は、あまり自転車が好きではない。というよりは歩きが好きだ。

買い物で荷物が重い時や、一緒に行く仲間が自転車の時以外はあまり自転車に乗りたくなくて、今日も徒歩で行った。
あと、10分で実家に着く辺りのスーパーマーケットで、野菜ジュースを2ダース調達し、リュックに詰めた。
ズシリとリュックのベルトが肩にくい込んだ。

ちなみに、父へのプレゼントは、私が結婚してからしばらくの間、図書カードだった。
そんなある日

「本は図書館で借りられるから、できたらビールがいいな」

そう言われて、ビクッとした。
同じ時期に、母に、

「母の日は花のままでいいか」

聞いたら、梅干しがいいと言われたっけ。

ビールを送り始めてかなり経ったころ、父が体調を崩した。

両親と同居する兄が、「私が、ビールを、父に送ること」を快く思っていないことを知った。

父が板挟みになっているようだとやんわりと母から聞いたからだ。

それ以降、野菜ジュースを贈ることにしている。


贈る者の気持ち、贈られている者の気持ち、どちらも満足している贈り物のパーセンテージは実は結構低いかもしれない。

野菜ジュース2ダースは、たまたま特売だったため約1200円くらいだった。
母へ贈っているの梅干しが、送料入れて3000円くらいだったからちょっと父に申し訳ない気もした。

実家のドアを開けて、「ただいま」と「こんにちは」を両方言った。
父は台所でリンゴを切っていた。
母の緑内障が悪化し視野が狭くなってから、頻繁に台所に立っているらしい。

「重かったでしょう。ありがとうね」
父と母から何度もお礼を言われて、

「いや、遅くなってごめん」

と言った。

母が準備してくれた豆ご飯と大根の味噌汁と、父が切ってくれたりんごとキウイをいただきながら、近況報告をした。

母が作ってくれた豆ご飯はとても美味しかった。
「美味しい」
そう言うと母はとても嬉しそうに笑った。

父も笑っていた。

兄が父に買ってくれたというマッサージチェアを私も使わせてもらった。
「結構強くて痛いよ」
そう言われたのに、私はあまり痛くなかった。
「肉がたくさんあるからかもしれない」
苦笑いしながら15分マッサージしてもらったら気持ち良かった。

実家は、私が結婚を機に出て行ってから、部屋の使い方がガラッと変わり、もう私の持ち物はほとんどない。
箸と茶碗くらいだ。
それでも、その箸と茶碗を出してくれて、手作りの食事でもてなされるとやはり家に帰ってきた感じがした。

ああ、そうか。
息子が生まれてからは息子と一緒に実家に来ることが多いから、じっくりと父と母と話すことが少なかったから、余計にじわりと帰省感が出たのかもしれない。

とはいえ、息子が学校から帰って来るまでに家に帰りたかったので2時間弱で実家を出た。

「帰りはバスで帰ったら。バス代あげるよ」
「いいよ。バス代くらいあるよ」
「それはわかってるけど、出したいのよ」
「そう? じゃあ、遠慮なく」
母は、200円渡してくれた。
本当は220円なんだよ、とは言わずにおいた。

「バス停まで送るよ」
目も悪いから、いいよ、と言おうとしたけれど、
「ありがとう」
と言って送ってもらった。

母を見ていると、人のために何かをしたい気持ちが伝わってくるのと同時に、人のために何かをできるということの有り難さを感じる。

つい、面倒に思うことも、当たり前にできなくなる日が、いつか来るのだ。
そう思うと、人に何かをできることもありがたく感じる。

「今日は楽しかった」
母に言われて、嬉しかったけど、今になって、そういえば父の日のプレゼントを届けに行ったんだと思い出した。

だけど、きっと、母が笑顔だと父も嬉しいはずだ。
もうすぐ金婚式だという両親が、お互いに病気を抱えながらも、助け合って暮らしていることは、きっと当たり前ではない。

嬉しいことだな、と改めて思った。

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