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失せ物語る

作:みそ

お母さんは僕のことを物を失くすプロだって言うけど、それは違う。だって僕が物を失くしてもお母さんはお給料をくれたりはしないし、それにそもそも僕は物を失くしてなんかいない。物が勝手になくなっちゃうんだ。そう言ってもお母さんは信じてはくれないし、きっと君だって信じてくれないんだろう?でもこれは本当のことなんだ。


第一話 セミの姿

夏休み3日目。4年生にもなると宿題は大量だ。昨日と一昨日で漢字ノートは終わらせたから、今日からは算数プリントに取りかかった。最初は順調だったけど、問題が難しくなるにつれて手が止まってくる。集中力が切れるとセミの声が気になりだした。

僕の家は狭い道路を挟んだ向かいに神社がある。近所の小学生たちは夏休みの間、毎朝この神社に集まってラジオ体操をする。初めは眠くてちゃんと開いていなかった目も、身体を動かすとパッチリして良い一日のスタートを切れた気分になる。
ラジオ体操が終わると友達とのおしゃべりタイムだ。夏休みに旅行はするのか、宿題はどれくらい進んだか、今日は暇かなどを話していると、午後から友達三人が僕のうちに来ることになった。「またあとでね」と言って別れるころ神社を囲む雑木林はようやく目を覚ましたのか、ミンミンミーンの声が徐々に大きくなっていく。その姿は見えないけど、気が付けば辺りはセミの声で埋め尽くされていた。昼へと向かう朝日に照り付けられた木々は、朝の風を受け心地よく揺れている。

セミは何をあんなに鳴くことがあるのかな。セミが僕の頭の中から算数を追い出してしまった。いくつものミンミンミーン耳から入ってきて頭の中をぐるぐると回っている。お昼前のこんなに暑い中で必死になって鳴いているからには、それなりの主張がなされているに違いない。僕はしばらく考えた末に一つの結論を導き出した。

――セミだってびっくりしているはずだ。地面の中で何年も過ごして、地上に出たらやってみたいことや行ってみたい場所なんかも考えていたのに、いざ土から顔を出してみるとこんなにも暑い毎日が待っていたんだから。でも地中に帰ろうにも羽根がつっかえて穴に入れないし、だからせめて次世代のセミが同じ過ちを繰り返さないようにとみんなで声を揃えて土の下に眠る後輩たちに伝えているんだ。「秋まで待て」と。

それでも毎年夏に目覚めてしまうだなんて悲しい生き物だなぁ、なんて考えているといつの間にか二等辺三角形の中に不細工なセミの絵が描かれていた。もともと絵は得意ではないけど、無意識のうちに描かれたこの絵はもはや僕以外にはセミともわからないだろう。さっさと消してしまおうと思い筆箱に手を伸ばすと、その途中で何かが小指に触れ床に落ちていった。

またやれた!

すぐさま机の下に椅子の下を探したけどその姿はない。早くしないと逃げられてしまう。逃がすわけにはいかない。ここで逃げられてしまったら夏休みの間も、そしてそのあともずっと大変な思いをすることになる。僕は必死になってあちこちを探し回った。ゴミ箱の後ろ、机と本棚の隙間、カーペットの裏側。それでも見つからない。もう諦めそうになったそのとき、僕は思い出した。
――そうだ、この部屋の出口は一つしかない!
よく目を凝らして扉の方を見てみると、そこには必死に走る消しゴムの姿があった。

「捕まえた!」
僕はすぐさま消しゴムのあとを追いかけ、部屋の外に出るほんの数センチ手前で捕まえることができた。消しゴムは力いっぱい握りしめられた僕の手の中でまだジタバタともがいている。少しくすぐったいけど、力を緩めるとまた逃げられてしまいそうな勢いだ。
「おい、観念しろ!君が逃げたら宿題が終わらなくなるじゃないか」
うんざりした口調で僕がそう言うと、手のひらに包まれた消しゴムは少しおとなしくなった。よかった、僕の言うことをわかってくれたんだな、なんて安心していると指の隙間からくぐもった声が漏れてきた。
「うるさいうるさい!お前が間違えなきゃ俺なんて必要ないだろうが!」
突然の反抗に少し驚いたけど、すぐさま僕も言い返した。
「そんなの無茶だ、4年生の算数は難しいんだからな!それに今すぐ消したい絵があるんだ。君がいてくれなきゃと困るよ」
「見てたよ。さっき描いてた変な絵だろ?あんなのを消すなんて御免だね」
やっぱりセミだとはわかっていないらしい。
「そうはいっても君は消しゴムなんだから僕は君であの絵を消すよ。……あの、セミの絵をね」
そう言って僕は嫌がる消しゴムを無理やり机まで連れて戻り、二等辺三角形に閉じ込められた不細工なセミの絵を力いっぱいに消した。初めは必死の抵抗を見せていた消しゴムだったけど、セミの絵が薄くなるにつれてその力も弱くなっていった。絵を完全に消し終わると、今度は落とさないようにと机のやや中央寄りに消しゴムを置く。ここで僕はようやく一息ついた。実はこの消しゴム、過去にも何度か僕から逃げようとしたことがあったんだ。ただそれは学校でのことだったからいつもはクラスメイトが消しゴムを捕まえてくれていた。だから僕が自分の手でこの消しゴムを捕まえたのは今回が初めてのことだった。手のひらにはまださっきのくすぐったい感触が残っている。

それにしてもこの消しゴムは何をこんなに僕から逃げることがあるのかな。不思議に思った僕は消しゴムに聞いてみようと思い視線を送った。するとなんと、すっかりおとなしくなったかと思われていた消しゴムは、よく見ると小刻みに震えていることがわかった。どうやら泣いているらしい。
「どうしたんだよ?泣かなくたっていいだろ」
僕は声をかけたけど消しゴムは何も答えない。ただすすり泣く小さな音がセミの鳴き声に混じって聞こえてくるだけだ。さっきの僕の行動が消しゴムの何かを傷つけてしまったようだ。初めての状況にしばらく戸惑ったけど、僕は意を決して口を開いた。
「……わかったよ、僕が悪かった。ごめんね」
もちろん僕は自分が悪いことをしたとは思っていなかった。でも消しゴムの機嫌を取るにはこう言うしかないと思った。ただ相変わらず消しゴムはこちらに見向きもしなかった。なんだか消しゴムに謝った自分が馬鹿らしく思えてきた。鳴り響くセミの声にもかきたてられ、僕は次第にイライラを募らせていった。
「ねえ!ねえってば!何で泣いてるんだよ。喋れるんなら言ってくれればいいだろ!いっつも逃げようとして、迷惑してるのはこっちなんだからな!」
とうとう僕は消しゴムに対いて声を荒げてしまった。これには泣いていた消しゴムも驚いたようで、半べそをかきながらも声を振り絞って言い返してきた。
「な、なんだよお前、俺の気持ちも知らないで!俺はな、俺はな、もう何も消したくないんだよ!」
消しゴムなのに消したくない?想定外の告白に僕はわけがわからなくなった。ただ僕も消しゴムが使えなくなるのは困るから何とか説得をしようと思った。
「そんなことを言ったって消しゴムは何かを消すものだろう?」
消しゴムも反抗してくる。
「うるさいうるさい!消しゴムがみんな好きで消してるだなんて思うなよ。お前にはわからないだろ!俺たち消しゴムがどれほど悲惨な運命を辿るかなんて」
消しゴムはかなり興奮した口調になっている。このままでは説得は難しいだろう。まずはこの消しゴムに落ち着いてもらわないといけないなと思った。そのためには消しゴムの想いをすべて聞くことが大切だ。なんせ僕は今まで消しゴムの気持ちなんて考えたこともなかったんだから。
「僕は君たち消しゴムの気持ちを何も分かっていない。だから教えてほしい。君の言う悲惨な運命とは何なのか、そしてなんで何度も僕から逃げようとしたのか……」
消しゴムはまた黙ってしまった。たださっきまで赤く火照っていたほっぺたは徐々に白さを取り戻し、目に溜まっていた涙もすっかり乾いていった。ようやく冷静になったらしい。しばらく沈黙が続き部屋にはセミの鳴き声だけが響いている。ようやく口を開いた消しゴムはさっきよりも低い声で語り始めた。

消しゴムってのはな、他人の残した軌跡を消すことしかできないんだ。誰かが間違えて書いてしまったものをただ消すためだけに存在しているんだよ。お前がしょうもない間違いをするたびに俺の命は削られていく。それなのに俺が通った軌跡には何も残りやしない。俺は自分で何も生みだしたことがないまま死に近づいているんだ。恐ろしくてたまんないよ。だが本当に恐ろしいのはそこじゃない。俺は死ぬことができないってとこだ。知ってるんだからな、お前ら人間は消しゴムを最後まで使い切ることはないってこと。散々使われた末にあまりにも小さくなった俺は、“消す”という使命さえも全うすることなく無為に生き永らえさせられるんだ。そんなの耐えられるわけないだろ!何も生みださず、いずれは消すことすらもできなくなる。そんな俺はもはや何者でもない、この体の通り真っ白なんだ。
だから俺は旅に出る。まだ俺が俺であるうちに、自分が何者なのかを見つけたいんだ。

力強い口調で語った消しゴムは、窓の外を見つめていた。
「俺は何も知らない。空がどこまで続いているのか、鳥はどこへ向かって飛んでいるのか。セミの姿だってお前の下手くそな絵でしか見たことがない。だがそんな俺でも変われるはずなんだ。広い世界に出れば本当の自分に出会えるはずなんだ。……なあ、だからどうか行かせてくれよ」
この消しゴムの強い意志を止められる言葉なんて僕は持っていなかった。今まで消しゴムが僕から逃げようと必死に走っていた後ろ姿を思い返すと、なんだか悲しい気持ちになってきた。消しゴムの気持ちも知らず、何度も捕まえては無理やり文字を消し絵を消していただなんて、僕はなんてひどい奴なんだろう。
「わかったよ。僕はもう君を止めない」
とうとう僕は消しゴムを手放すことを決めた。これを聞いた消しゴムは、一気に表情が明るくなった。まだ見ぬ未知の世界へのドキドキと、険しい旅への不安とが入り混じったような顔つきに見えた。
「でも一つだけ約束して。2学期が始まるまでには帰ってきてよ。夏休みの宿題は頑張るけど、授業ではさすがに消しゴムが必要だから」
この先ずっと消しゴムを使わずに生きることなんて僕にはできない。だけど消しゴムの決意は固く、僕のお願いなんて意にも介さなかった。
「その約束……守れないね!」
消しゴムはそう言い残してそそくさと部屋の外へ走り去っていった。僕はそんな消しゴムを卑怯だとは思えなかったし、それどころか格好いいとさえ思えてしまったんだ。消しゴムを追いかけることなく立ち尽くした僕は、もう二度とあの消しゴムに会うことはないんだろうなと思った。

お昼ご飯のそうめんを食べ終えて扇風機の前で涼んでいると、朝うちで遊ぶ約束をした友達が三人揃ってやって来た。玄関で出迎えをした僕はすぐ三人を自分の部屋へと通した。初めはみんなで一緒に算数のプリントを解いていたけど、すぐにだらけ始めてしまった。気が付くと僕たちはアイスを食べながらただただおしゃべりをしていた。夏休みにやりたいことや行きたい場所を考え、またみんなで遊ぶ予定を立てた。そうこうしているうちに太陽はすっかり傾き、空はオレンジ色に染まっていた。夕暮れ時のセミは物寂しそうに鳴く。友達の一人がもうそろそろ帰る時間だと言いだしから今日は解散することにした。僕は玄関まで見送りに行き「また明日ね」と言った。すると靴を履いている友達のうち一人が自分の靴の中を見て小さく声を漏らした。どうしたのかと思って覗き込んでみると、友達は靴の中から白い物体を取り出して僕に見せた。
「これってお前の?」
「ああ……うん、僕のだ」
「なんでこんなところに入ってたんだろな」
「さあ、なんでだろうね……」
友達は僕に“それ”を手渡すと、先に出て行った二人を追いかけて行った。
「じゃあまた明日な」
「ばいばい」

僕はまた部屋に戻って“それ”を机の真ん中に置いた。でも一向に動く気配がないからしばらく放っておいて、晩ご飯もお風呂も済ませてしまった。そろそろ寝ようかというころ、ようやく“それ”は目を覚ました。
「う、うぅ……」
苦しそうな声を上げている。
「大丈夫?」
「ああ、なんとか。それにしてもひどい目に遭った。まだ頭がクラクラする」
「何があったの?どうしてあんな所にいたの?」
「あんな所?……そうか思い出したぞ。聞いてくれよ、災難だったんだよ!あのあとこの部屋から出た俺はまず家の中を探索したんだ。とはいっても所詮家にある物なんてたかが知れている。そう思った俺はとうとう外の世界へ出ていく決心をした。だが玄関のステップを勢いよく飛び降りると、目の前が急に真っ暗になったんだ。さらには酷い臭いまで立ち込めてきやがった。外へ出ようにもそこはとても狭い空間で出口がなかった。どうすることもできず俺はその毒ガスにやられ、意識を失ってしまったってわけだ」
あまりにも早い再会の理由を知った僕は、こんな消しゴムを一度でも格好いいと思ってしまった過去の自分を恥ずかしく思った。
「俺はもう旅なんてしない。外の世界にはこりごりだ」
消しゴムはそう言って筆箱の中に帰っていった。
「それじゃあ、また明日ね」
僕は部屋の明かりを消し窓の外をぼんやりと眺めた。夜の虫の優しい音色が響いていた。

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