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芸術は文字じゃない言語なのか? :グッドマン『芸術の言語』読書会


もし言葉ですべて伝わるなら、アートやデザインはいらないはず。芸術や文字以外の表現でしか伝えられない“何か”とは何だろうか? そんな“何か”を「シンボル」から考える、独創的な哲学者ネルソン・グッドマンの『芸術の言語』。『ブルーピリオド』からUIデザインまでを語り合いながら、デザイナーと哲学者と実務家と開催する読書会企画、第3弾!


非言語で考えるとはどういうことか?

難波 グッドマン研究を行っている難波です。本日は、デザイナー、哲学者、実務家の方々と一緒に『芸術の言語』を読み、文字じゃない言語とは何か? を考えていきたいです。

一同 よろしくお願いします。

難波 「芸術の言語」と聞いて、みなさんどんなポイントが気になりますか?

瀬尾さん 自分は「非言語で考えるとはどういうことか?」。ここが気になっています。たとえば、スポーツをしているとき、きっと文章で何かを考えてはいないと思います。でも、次の動きや相手の予想など、複雑なことを考えているはず。そうした非言語の思考について何か書いてあるとしたらうれしいな、と思っています。とはいえ、例にもれず、『芸術の言語』なかなか咀嚼が難しかったです。

難波  非言語で考えるとは何か、それを考えるためのヒントはこの本にたくさんつまっているんじゃないかと思っています。今日は考えるための道具をいろいろとご紹介できたらと思っています。

Theme01 文字じゃない言語だとしたら、美術はどんな言語なのだろうか?

何かを伝えるとき、私たちはことばを使います。でも、使っているのはことばだけでしょうか? ことば以外の「言語」でも私たちが考えや気持ちを伝えているとしたら、それはどんな「言語」なのでしょうか?

難波 芸術の言語の話をするために『ブルーピリオド』の話をさせてください。山口つばさ作で、2017年から『月刊アフタヌーン』にて連載の美術マンガです。めちゃくちゃおもしろいのでおすすめです。

今井さん 3巻くらいまで読みました。恋ちゃんがかわいい。

難波 かわいいですよね。ぼくは世田介くんがすきです。

難波 主人公の矢口八虎(やぐち・やとら)は、成績優秀だがタバコや酒もする不良で優等生な高校生です。誰とでもコミュニケーションを取れて、チャラっとしたグループからだけでなく、インドア派なグループとも仲良くて、誰からも愛され一目置かれる少年です。世渡り上手で何事も器用。
裏を返せば何事も「安牌」を求めるような男の子で、どこか味気ない毎日を送っていた。そんな中、美術の授業の課題で「私の好きな風景」を描く、というお題が出ました。テストではすぐに答えが出せるのに、珍しく悩む八虎くん。ある日美術室を訪れて、そこで見た一枚の絵になぜかぐっと惹きつけられました。

難波 ちなみに作中の絵は山口さんの周りのアーティストの方が制作していてそれもおもしろくて魅力的です。なんとか絵を描かないで済まないかなあと思っている八虎くんに対して、美術教師は 「矢口さんがみんなに言いたい景色 教えてください」と言います。

難波 「美術は面白いですよ」「文字じゃない言語」だから、と言われた八虎くんは、知らね〜という感じで、その後酒は飲むわタバコは吸うわの仲間とどんちゃん騒ぎ。オール明けの早朝の渋谷を歩いていると、ふと、美術教師の言葉を思い出して、つぶやきました。

難波 「なんかいい」。「ゴミくさくね?」。と、残念ながら友達には何かが伝わらなかったようです。その後、八虎くんを惹きつけたあの大きな絵を描いた、森先輩に出会いました。

難波 「渋谷なんだけどその…静かで 青いんすよ」とつい伝えてしまう。先輩は少しだけ共感してくれます。でも、全部はやはり伝わっていない。けれど、こう言ってくれました。

難波 八虎くん、森先輩にもらった言葉に何かを感じたみたいです。その後、八虎くんは一生懸命絵を描き始めます。紙が水でふやけてうまく描けなかったり、もっと早くやっておけばよかった、と悔しがり、うまくいかないながらなんとか作り上げました。

難波 でも何か大切なことが伝わっていなくて、もどかしくて恥ずかしくてやるせない気持ちになってしまう八虎くん。けれど、八虎くんの作品を見た仲間がふと気づきました。

難波 この言葉を聞いて、八虎は思わず涙ぐみます。

その時生まれて初めて
ちゃんと人と会話できた気がした

Aさん 私も『ブルーピリオド』は全巻読んでいて、このシーンは好きです。

難波 「なに八虎かわいいじゃん!」と友達に茶化されながら彼は思います「生まれて初めて会話できた」。何度みてもじーんとしてしまうシーンです。これまで、うまく話を合わせることはできたけど、一度も話すことはたぶんできていなかった八虎くん。でも、絵という言葉じゃない言語で初めて誰かと何かを通じ合わせることができた
この後彼は藝大に本気で入ろうと努力をし始めます。その続きはぜひマンガを読んでみてください。

🔷『芸術の言語』と『ブルーピリオド』

12年間画廊のマネージャーをし、そこで水彩画家スタージェスと出会い結婚し、その後哲学者として本格的に活動を始めたネルソン・グッドマンが『芸術の言語』で突き詰めたかったこと。それがまさに八虎くんのあの感動、「生まれて初めて ちゃんと人と会話できた気がした」と思わせた、美術、そして芸術の言葉の力です。

I:絵画の記号作用
第1章から第2章まで。指示、例示、隠喩、表現。グッドマンのシンボル論の基礎概念が登場します。
II:贋作の哲学
本物の芸術作品と、その贋作はどう違うのか? 音楽の贋作はあり得るのか? など、第3章はやや独立した贋作の哲学が展開されます。
III:記号システム論
第4章と第5章は、グッドマンが立ち上げる「芸術の言語」の理論の全体が構築されていきます。一番ハードな部分ですが、とてもスリリングでおもしろい。
IV:認識と美
第6章では、芸術の哲学や美学を認識から捉えることで、より深い理解に到れるビジョンを提示。フィナーレにふさわしく、これまでの議論のすべてが総動員されます。

「文字じゃない言語」である美術をはじめとする芸術を分析するために、グッドマンは「記号(symbol)」を手がかりとしました。これから、デザインや感性、非言語的な思考をより深く考えるためのヒントを提供できればと考えています。


STEP1 絵画は描くものに似ているのか?

難波 では、まず一つクイズを出してみましょう。

Q. 「Dog」と🐶は何が違いますか?

Aさん Dogは、この文字が指す犬の雰囲気は未決定な感じがします。シェパードだったり、スッとしたカッコイイ犬もイメージ可能です。対して、🐶はこの絵文字の通りの犬の雰囲気をイメージします。

Yさん Dogは英語を知らないと意味を理解できませんが、🐶は誰でも何を指しているのか理解しやすいと思います。

難波 ありがとうございます。いずれもまさにグッドマンが関心を持っていたポイントです。それぞれ見ていってみましょう。
まず、グッドマンは絵画の特徴は何かを考えます。絵画は対象を「再現(represent)」しています。その時によく、絵画は「指示するものに似ている」と言われます。いっけん「Dog」という記号より「🐶」という記号の方が犬に似ているように思えます。しかし、グッドマンはそうではないと言います。結構意外に思えますよね。グッドマンは「再現とは類似だ」という説について2つの難点をあげます(p. 8)。

  1. 類似は反射的だが、再現はそうではない(私は私に一番似ていますが、私は私の絵とはふつう言いません)

  2. 類似は対称的だが、再現はそうではない(AがBに似ていれば、同じ程度にBもAに似ている。犬の絵が犬を再現している場合でも、犬はその絵を再現しているとは言いません)

こうなると、どうやら類似しているからといって再現しているとは言えなさそうです。その代わり発見はありました。類似は関係なさそうですが、とにもかくにも絵が何かを再現しているということ=絵が何かを指示しているということです。

STEP2 フィクションの絵は何を表しているのか?

しかし、ここで思わぬ問題が。「じゃあフィクションの絵は何を指示しているんですか?」。ふつう指示するのは現実に存在しているものです。『ブルーピリオド』の八虎くんの絵は八虎くんを指示できない。森先輩の絵も森先輩を指示できない。そう考えると、「八虎くんの絵は八虎くんを再現している」って変な言い方じゃないでしょうか。八虎くんは現実には存在していないからです。

ここでグッドマンは面白いことをいいます。そう、フィクションの絵は何も指示していない。しかし「八虎くんの絵」という言い方は実は二通りに解釈できるんだ、と。どういうことでしょうか?

1つ目は、その絵が何を指示しているのかを述べるものとして。ふつうの絵なら大丈夫です。犬の絵は犬を指示しています。けれど、これはフィクションではおかしいです。「実在する八虎くんを再現している絵」だというのは変ですよね。

2つ目は、その絵がどんな種類の絵なのかを述べるものとして。この2つ目がキモです。

「八虎くんの絵」と私たちが言う時「これは八虎くんを指示している」と言っているのではないとグッドマンは言うのです。では何をしているのか。それは、「これは八虎-絵(yatora-picture)だ」という、絵の種類の話をしている、と言うのです。

例えば、いろいろなフィクションの絵があるとします。👾、🧛‍♀️、🧜‍♀️。それぞれ、インベーダー、ヴァンパイア、セイレーンの絵です。しかし、これらはみな存在していない。だから、これらの絵は何も指示していません。でもなぜこれらの絵は違う絵なのでしょうか? それは、まさに今言ったように、「インベーダー-絵」「ヴァンパイア-絵」「セイレーン-絵」として分類できるそれぞれ違う種類の絵だからです。

絵は必ず何かを指示している。フィクションの場合は無を指示している。そうなると、八虎くんの絵と森先輩の絵はどっちも無を指示することになって一緒の絵になっちゃう? と思いきや、八虎-絵と森先輩-絵は、それぞれ異なる種類の絵として理解できるため、一緒の絵にならないわけですね。

STEP3 風刺画は何をしているのか?

こんなふうに絵を種類で分けて何がおもしろいのでしょうか? おもろしろさが徐々に明らかになっていきます。ここでポイントがあります。

すべての人-絵が人を再現するわけではないし、逆に人を再現するすべての絵が人-絵であるわけでもない。また、人を再現する絵には、人を人として再現する絵と、人を人としては再現しない絵があるわけだが、そのちがいはそれが人-絵であるか否かというところにある。

『芸術の言語』28.

もしかすると、ピンときた方もいるかもしれません。私は最初この文章を読んだ時それほどピンときませんでした。そこで、下の絵を見てください。

Sidney Strube, Bulldog Churchill, 1940. Depicting Winston Churchill as a bulldog.

難波 これは誰の絵でしょうか? つまり、誰を指示している絵でしょうか? チャーチルの風刺画ですから、チャーチルを指示している絵ですね。しかし、ブルドッグの風刺画ではありませんものね。では、これは何-絵でしょうか?  チャーチル-絵というよりもむしろブルドッグ-絵と言えるのではないでしょうか。

この風刺画のおもしろさは、ブルドッグとしてチャーチルを描き、ブルドッグの持つ頑固さを表現しているところにあると思います。言い換えれば、

ブルドッグ-絵という種類の絵を使って、チャーチルを指示している

つまり、私たちは、あるX-絵という種類の絵を使って、好きにXやX以外を指示できるし、実際、たくさんしているわけです。風刺画もそうでしょうし、写真芸術でもそうです。例えば、知人の美学者が取り上げていて興味を惹かれた写真家リチャード・モスの作品があります。

その中で《Safe From Harm, North Kivu, eastern Democratic Republic of Congo, 2012》を取り上げてみましょう。これは、鮮やかなピンクを発色する特殊なフィルムを使うことで、戦火の絶えないコンゴ共和国の風景と人を映し出した写真で、夢見るような雰囲気と同時に銃口の冷たさが独特の感覚を生み出しています。これは写真ですが、ピンク色の風景-写真としてコンゴ共和国の風景を指示することで、独特な感じを生み出しています。このように、絵や写真、表し方の種類を自由自在に使って現実を映し出す創意工夫によって、芸術は独特な表現を試みています。

上の作品はピンクですが、ここで八虎くんの「青い渋谷」を思い出してください。

こちらは八虎くんの作品そのものではありませんが、イメージとして参照しました。八虎くんの青い渋谷の絵もまた、モスのピンクのコンゴのように、青い-絵として、あるいは海-絵として、あるいは空-絵として……無数の可能性がありますが、とにかく、単純に渋谷-絵としてだけ渋谷を指示しようとはしていない表現であるわけです。グッドマンは美術史家のゴンブリッチを引用してこう言います。

「絵画は一つの科学であり……個々の絵はまさにその実験なのだ」

『芸術の言語』34.

再現や記述は、その描き手や書き手が新鮮で意義のある関係をどれくらい把握し、またその関係が見えるようになる方法をどれくらい工夫しているかという程度に応じて、適切であったり、効果的であったり、明快であったり、細やかであったり、興味深かったりする。おなじみの仕方で対象を切り出して、それらを月並みなラベルのもとでありがちな集まりに分類するような言説や描写は、退屈ではあるにせよ、しばしば実用的だろう。新しい要素やクラスを切り出したり、新しいラベルによって——あるいは古いラベルを新しく組み合わせることで——なじみの要素やクラスを切り出したりすることは、新しいものの見方を与えるだろう。

『芸術の言語』34.

八虎の絵は、まさに、朝の渋谷の光景を「青色-絵」「海-絵」「空-絵」……として表すことで、青色のもとで渋谷を見る、という現実の新しい分類の方法を創り出しています

「あなたが青く見えるなら りんごもうさぎの体も 青くていいんだよ」。という先輩の言葉は「あなたが「青色-絵」に分類したいなら、りんごもうさぎの体も「青色-絵」として指示していいんだよ」という言葉に翻訳できるでしょう。ふだんは使われていない種類の絵を使って、新しいものを指示することで、そのものが持っている性質を際立たせたり、性質を加えたりしてみる。これは芸術ならではの表現の一つの特徴であると言えます。

STEP4 例示というはたらき

だいぶ絵の独特さが分かってきました。しかし、もっとグッドマンは進みます。もう一つクイズを出してみましょう。

Q. 「青い渋谷」という記述と〈青い渋谷の絵〉は何が違いますか?

こちらはけっこう分かりやすいのではないでしょうか。「青い渋谷」という記述は青くない。しかし、八虎くんの〈青い渋谷の絵〉は青い。

言語と絵の違いは、絵の方がリッチに様々な特徴=性質を持っている点に見いだせそうです。しかし、それが絵を使ったコミュニケーションとどう関わっているのでしょうか?

ポイントは、絵は、たくさん持っている性質を使って何かを表しているということにあります。

〈青い渋谷の絵〉は「爽やかさ」だったり「深み」があったり「透明感」だったり、いろいろな性質を持っています。ただ持っているだけでなく、この性質を使ってまさに当の「爽やかさ」「深み」「透明感」を表わしています。

こうした働きをグッドマンは「例示」と呼びます。

例示(exemplification)
ある性質を持っていて、その性質の中の特定のものを表示するはたらき。

例示という概念は、いっけんとてもふつうに見えるかもしれません。青い絵が青さを表しているのは当然じゃないだろうか? しかし、ここに言語と絵の大きな違いがあります。さきほど言ったように、「青」という自然言語はちっとも青くありません。「青」という言葉はたしかに「青さ」を抽象的には伝えることができますが、この一単語だけでは、肝心のその青さを伝えることができない。しかし、その青さが伝わらなければ「爽やか」も「深み」も「透明感」も何も伝わらない。

八虎くんの「青い渋谷の絵」は、まさに特定の「青さ」を持っています。たんに「青」と文字が書かれているわけでもなく、八虎くんが苦労して、こういう青にしたい、と工夫をして、渋谷の朝はこうだった、と思い出しながら塗った青です。それは八虎くんが、仲間に「なんかいいよな」と言っても、森先輩に「静かで 青いんですよ」と言っても十分には伝わらなかった青です。

八虎くんが「生まれて初めて ちゃんと人と会話できた」と思えたのは、まさにこの例示の力だったといえます。伝えたい青を画用紙にのせて、それを人に見せることで、まさにこの青として早朝の渋谷を見たあの感覚を他の人にも伝えようとして、そして「なんとなくわかる!」と言ってもらえたあの喜び。それは言語では伝わらない、絵でしか伝わらなかった八虎くんの世界でした。

文字じゃない言語である絵とは、自然言語では伝えることができないような、性質を直接使うような言語、と言えそうです。

※ここでもしかしたら気になった人がいるかもしれません。「八虎くんの青い渋谷の絵は、「青さ」を持っているけど「爽やかさ」や「深み」や「透明感」は持ってないのではないか? なぜなら、絵は爽やかという性質を持たないし、絵は平面なので深くないし、絵は不透明では?」。この疑問はもっともで、まさしくグッドマンが興味を覚えている点です。実は、例示が表示する性質は、文字通りの「青さ」といった性質だけでなく、「深み」のような比喩的な性質を表示してもいいのです。これをグッドマンは「表現」と呼んでいます。絵は、隠喩的な例示ができる、つまり、隠喩的に性質を表示=表現することができる。これも絵が持つ独特なコミュニケーションの力だと言えます。

📜絵画に文法はあるのか?

瀬尾さん 絵画の言語のあり方は、名詞的なものに見えます。「犬」という自然言語よりも「犬の絵」は、いろいろな性質を持っていて、それを表すことができる。しかし、自然言語のように、絵画は文法を持っておらず、文を作ったりはできないようにも見えます。そうすると、絵画と言語の違いは、文法があるかないか、という違いでもあるんでしょうか?

難波 たしかに、絵画はとても巨大な名詞だと言えそうです。しかもあまりにも大量の性質が描かれているので、見る人や見方によって無数に意味が生まれるようなタイプの特殊な名詞です。

絵画の文法は大きく二通りのものがありそうです。

1. 画面の中の3次元的空間・画面上の配置などの組み合わせが表す指示や例示
2.  複数の絵画を空間上に配置することで生み出される関係

1つ目は、画面の中の文法です。キリスト絵画のように、上に置かれるものは天に近かったり、大きく描かれるものは重要だったりするような無数のルールが存在します。遠近法でいえば、小さく描かれるものは遠くにある……といった画面上に奥行きを創り出すルールなどです。

2つ目が、より言語的な文法に近い、絵画同士の文法ですね。こちらはたしかに、言語ほど洗練されているわけではなさそうです。しかし、こうした絵同士の文法を開発、洗練させている文化がマンガだと言えそうです。複数の絵を一定の規則で配置することで、時間や出来事の繋がりを生み出しています。もちろんたいていは言語を伴いますが、吹き出しのないマンガも出来事同士の複雑な関係を表すことができる点で、絵画同士の文法は、言語ほど明確な構造を見出すことは難しそうですが、ある程度存在すると思います。

さらに言えば、絵画ではなく映像に目を向けると、さらに豊かな文法的な構造が見出せます。無声映画のように、いっさいのセリフや音声のない映像でも、出来事の流れを表すことができるという点では、言語とは違うやり方で、言語における文法が行うような表現がなされています。

🔑描写の哲学🔑
絵画も含めた画像の意味や構造を分析する研究分野に「描写の哲学」があります。以下のブログエントリはいずれも日本語で読める入門としておすすめです。

🦑記号論の何がおもしろいのか?

今井さん 八虎くんの絵の分析で気になったことがあります。「青い渋谷の絵」が「青色-絵」であったり、「爽やかさ」「深み」「透明感」を例示している、という話がありました。こうしたのを聞いていると、記号論は「骸骨が描かれているから、この絵は生の儚さを意味している」といった、一対一の意味対応を分析するためのものなのでしょうか?

難波 ありがとうございます。グッドマンの記号論は一対一の意味対応を分析するためのものではありません。明確に違います。この後の記号システムの話にも関わりますが、重要なポイントは、記号は無数の指示や例示をすること、そして、指示や例示の適切な解釈は無数にありうること、です。そして、芸術作品が芸術的である由縁の一つは、それが無数の豊かな性質を持っているがゆえに、無数の例示を行うことができ、それらの無数の例示の解釈がつねに揺れ続ける……そうした、解釈の絶えざる運動にあります。グッドマンはこう言っています。

有限な仕方で〔記号の指示や例示の内容を〕確定するのが不可能であるということは、〈いわく言い難さ〉––美的なものの特徴としてきわめて頻繁に主張されたり避難されたりするもの––をある程度は示しているだろう。

『芸術の言語』289.

難波 かくのごとく、グッドマンの記号論は、芸術の〈いわく言い難さ〉を捉えるためのものです。グッドマンの記号論は記号の不確定性をいかに明晰に理解するか、という一見矛盾した知的冒険であって、記号を解釈するためのマニュアル集というわけではありません。おそらく多くの記号論も同様のモチベーションを持っていると思いますが、グッドマンはいっそう自覚的に記号論の動機に基づいて記号の体系をつくろうとしていると思います。グッドマンは〈いわく言い難さ〉のトピックを「統語論的稠密性」などの概念を用いてさらに深堀りしていますが今回はご紹介は辞めておきましょう。こちらも『芸術の言語』の第6章や巻末の概要で論じられているのでぜひチェックしてみてください。

Theme02 他の言語たちはどんなものか?

これまで、八虎くんの渋谷の絵がどんな言葉なのかを考えてきました。ここからさらに「芸術」の言語に進んでみましょう。そうすることで、最終的には、デザインを考えるための枠組みを手に入れることをめざします。その枠組とは「記号システム」と呼ばれる枠組みです。これは、言語だけでなく、絵画、音楽、建築、ダンス……あらゆる記号の「言語」を分析するためのフレームです。そう聞くとなんだかすごそうですよね。


グッドマンは、絵画の言語の分析にとどまらず、あらゆる芸術を、それぞれの芸術の記号的特徴から分類するという壮大な記号論を打ち立てました。「記号論のトピックである、①記号(symbol)同士の関係。②記号と記号が指示するものの関係」。これを、統一したフレーム=記号システム(symbol system)から分析する試みです。その際にグッドマンが提案したのは、統語論と意味論を持った記号システムでした。

STEP1 統語論と意味論

難波 統語論と意味論、どちらも難しそうな言葉ですが、むやみに難しいわけではありません。ゆっくり紹介していきましょう。

統語論:記号同士の関係(=自然言語の文法、マンガのコマ割り)
意味論:記号と内容の関係(=指示や例示)

まず、統語論と意味論は、「認識論」だとか「存在論」だとかとはかなり違う意味での「論」ということをおさえていただけるとまずよいと思います。

統語論は、記号同士の関係のルール、「語を統べるルール」と理解してください。同様に、意味論も、「意味とは何か?」という意味の論ではありません。意味論は、記号と内容の関係のルール、「意味のルール」と捉えてください。試しに、自然言語で考えてみましょう。

英語の統語論
英語という記号システムは、アルファベット記号を要素として使います。そして、アルファベットを左から右に並べることで、様々な単語が生成されます。通常の場合だとタテに並べてもうまくいきません。こうしたものが(英語の)統語論です。記号同士の関係のルールですね。

英語の意味論
例えば、「d」と「o」と「g」というアルファベットを一回ずつ使うと「dog」「dgo」、「odg」「ogd」、「god」「gdo」が生成されますが、このうち「dog」と「god」だけが「犬」と「神」という意味を持っています。つまり、「dog」と「god」だけが対応する意味を持っているわけですね。残りは対応する意味を割り当てられていません。こうした記号と内容のルールが(英語の)意味論です。

この統語論と意味論のセットが記号システムです。記号システムはほんとうに無数にあります。英語の記号システム、日本語の記号システム、中国語の記号システム。それだけでなく、西洋音楽の記号システム、バレエの記号システム、絵画の記号システム、建築の記号システム、料理の記号システム……etc. あらゆる活動には記号システムが存在します。詳しい話は、第4章で論じられているので、グッドマンに取り組みたい人はぜひ本文を。巻末の概要も参考にお読みになると、勘所はぐっとつかめると思います。

※ちなみに「私たちはバージョンを作ることで世界を制作している」という「世界制作論」におけるバージョンとは記号システムのことです。実はこの指摘はなぜかこれまでそれほどなされていないので、論じていきたいと思っています。グッドマンのもう一つの主著『世界制作の方法』の読書会まとめもぜひ。

STEP2 ビデオゲームの記号システム

記号システムを用いて、芸術形式+記号形式に存在する記号的関係を整理することが『芸術の言語』におけるグッドマンの目的の一つです。記号システムによってできるようになることの一つには、それぞれの芸術形式の記号論的な特徴やおもしろみを分析できる。という点があります。

そこで、今回は「ビデオゲーム」を取り上げてみましょう。というのも、松永伸司『ビデオゲームの美学』(慶應義塾大学出版会)において、実際にグッドマンの記号システムを利用した分析が行われているからです。

さらに言えば、UIデザインを考える上で、松永の議論は手がかりになるからです。では見ていきましょう。


この本の核となる主張の一つとして、「ゲームには一つの画面と二つの意味がある」と述べられています。どういうことか。ディスプレイに写っている一つの記号が、フィクションの意味ゲームメカニクスの意味(ゲームのルールや仕組みの集まり)のどちらか+どちらもを意味することができるということです(cf. 110)。

難しそうですが、分かると興味深い指摘なんです。例えばファミコンで発売された『スーパーマリオ』の画面上を見てみましょう。都合上、写真を掲載しないので頑張って想像してみてください。

まず、マリオがいますね。それから、クリボーやパックンフラワーなどの敵キャラもいます。緑色の1UPキノコもありますね。これだけではありません。画面には、木だったり雲だったりがあります。さらには、後何秒でゲームオーバーになるのか「time」だったり、「score」「残機」も表示されています。

まず、木や雲に注目してください。これはいっさいゲームに関わりません。動かすこともできないし、マリオがぶつかったりしない。これらは純粋に「マリオ世界の木」「マリオ世界の雲」といったフィクションの内容しか持ちません。

他方で、時間やスコア表示に目を移してみると、これらはゲームのシステムやルールを表示しています。しかし、マリオ世界にはこれらの居場所はありません。そうですよね。マリオは自分の残機数を知らないし、スコアがいくつかを知ることはない。これらはフィクションではなく、純粋にルールの次元に属しています。つまり、時間やスコア表示は、純粋にゲームメカニクス(ゲームのルール)の意味論にしか対応しません。

そして、マリオやパックンフラワーにフォーカスすると、おもしろいことが分かります。「マリオ」の記号はどんな内容を持っているでしょうか? まず、フィクションの内容「マリオ」を持っていますよね。しかし、木や雲と違い、マリオはプレイヤーが動かして、ゴールに向かって操作する対象です。ゆえに、マリオは「プレイヤブルキャラクタ」「ゴールに接触させるとクリアできる」といったゲームメカニクスの内容も持っているわけです。

つまり、マリオやパックンフラワーは、フィクションの内容だけでなく、ゲームメカニクスの内容も持っている。2つの意味論に対応する記号なのです。

言い換えれば、ディスプレイ上には1つの統語論があるわけですが、それに対して、2つの意味論が対応できるのがビデオゲームという芸術形式の独特さなのです。さらに、ビデオゲームにおける空間や時間もまた、二つの意味論のあいだを重ね合わせることで独特な遊び心地が生まれています。次に事例を出してみましょう。

🥇世界を操作するゲーム

『Baba Is You』というゲームをご存知でしょうか。白いふわふわした謎の生き物「BABA」を操作して、ゴールである「FLAG」に触れることでクリアとなるゲームです。

実はこの説明は間違いです。このゲームのおもしろさは、ステージ内にルールが設置されていることです。例えば、「BABA」「IS」「YOU」というブロックが置かれていますが、例えば、「YOU」の位置を動かしてしまうと、BABAが動かなくなってしまいます。なぜなら、BABAはYOUではなくなってしまうからです。たとえば、「BABA」「IS」「WIN」にしてしまえば、自分がゴールになりクリアできてしまいます。下の動画をご覧ください。

これをグッドマン、松永の記号論を手がかりに考えると、『Baba Is You』を表示するディスプレイ上の記号は、フィクションとゲームメカニクスの二つ意味論に対応します。

フィクション:白い生き物、岩、壁、黄色い旗、「BABA」「IS」「YOU」「FLAG」「WIN」「WALL」「STOP」「ROCK」「PUSH」
ゲームメカニクス:操作できるキャラクタ、押せるオブジェクト、通れないオブジェクト、ゴール、文

このゲームの特徴は、ゲームの中でゲームメカニクスを動かすことができる点にある。つまり、ディスプレイ上でゲームメカニクスの意味論+フィクションの内容も変化させることでゲームをクリアするというグッドマン的(?)ゲームだと言えます。

📱UIデザインの言語

いまのはビデオゲームを例にあげました。しかし、1つの画面と2つの意味が当てはまるのはビデオゲームだけではありません。「UIデザイン」もまた同じ構造を持っていると考えられます。例えば、画面上にボタンやハンバーガーメニューが表示されているサイトをイメージしてみてください。

画面上:文字や様々な図形やイラスト
ふつうの意味論
:文字の内容、「ボタン」「ハンバーガーメニュー」
メカニクスの意味論:ある領域をクリックしたりホバーするとどんな動作が起こるか

メカニクスと文字的な意味とが重なり合う点は、ビデオゲームの記号システムと類似しています。ここから考えると、悪いUIデザインとは、メカニクスと文字的な意味の二つの意味論のつながりがうまく結び付けられていないデザインだと言えそうです。

メカニクスと文字的な意味の結びつきはあらかじめ決定されているわけではありません。浮いているメッセージ→〈メカニクス:押すことができる〉〈意味:ボタン〉という二つの意味論をつなげるのは、現実の物理的なボタンが押すことができるということ。そして、ボタンを押すとボタンに表示されている動作が起きる、という理解を私たちが持っているからです。

逆に、まったくあたらしいメカニクスの意味があるときには、私たちはまったく新しい文字表記や形の表記を考案する必要があります。例えば、iphoneはシェイクすることでREDOができます。しかし、多くの人はあまりこの機能を使いこなせていないでしょう。なぜなら、日常において、何かを振るという動作(ふつうの内容)と何かをやり直せる(メカニクスの内容)とは結びついていないからです。このように、メカニクスの内容を伝えるためには、しばしば物理的な動きと機能のアナロジーを使う必要があったりします。逆に、まったく新しい意味論の結びつきはどれくらい可能なのか、気になるところです。


瀬尾さん デザインは、記号と意味の結びつきをいかにして明確にさせるかを探求しているんだと思いました。

Sさん そうですね。ボタンは「リアルにあるボタン」という共通のイメージを借りてデザインしていますが、ハンバーガーメニューはなぜあんな形なのだろうか? というのは気になりますね。物理的な世界でハンバーガーメニューのようなものを触って情報が展開されるという経験をしたことはないのに。誰が始めたんでしょうね。

難波 機能と記号の結びつきがうまくいかなかったために、生き残れなかった大量のデザインがあるはずだなあと思い、そうした死んでしまったデザインの歴史を辿るのもおもしろそうだなあと思いました。

瀬尾さん ハンバーガーメニューも一度死にかけましたもんね。おそらく、ハンバーガーメニューはリストに由来していて、リストに触れて展開する、というアナロジーがあるのかな、と思います。

難波 それは、例示の解釈の複数性とも関わりますね。さきほどのUIデザインの話でも当てはまりますが、記号とその内容の結びつきは習慣により決まる、とグッドマンは論じていて、どのような結びつきがより適切なのかは文化毎に異なり、丹念に見ていく必要があるように思えました。

🍴プロダクトデザインの記号論

Aさん プロダクトデザインの世界が記号論で説明できるのか気になっています。かわいい、かっこいいいだけじゃなく、加工しやすいからこういう形だ、コストが低いからこういう形だ、人間の手に収まりやすいから……などなどいろいろな性質があると思います。そうしたものも記号システムで説明できるのか気になります。

難波 デザインには、例示されている性質がたくさんあります。例えばドアなら「大きさ」、「押すと開く性」、「横に開き性」、「引くと開く性」など。こうした無数の例示性質の中で、メカニクス=機能の意味とうまく対応しているものと対応していないものがある。なので、とても美しいのだが、使い方が分からないデザインプロダクトは、空虚なデザインプロダクトであり、デザインプロダクトとしては価値がない。デザインの難しさはおそらく3つほどあると思います。

  1. プロダクトが例示する非機能的な性質を機能的な性質とどう結びつけるのか

  2. プロダクトはどれくらい非機能的な例示をするのか

ドアは機能に関係ない色や形の性質を無数に持っています。それがそれぞれのドアの良さを生み出していたりします(2.)。しかし、あまりにも性質が多すぎたり、あまりにも少なすぎたりして、機能的な性質が埋もれたり、隠れてしまったりするケースがありそうです(1.)

🎶音の意味論

Mさん サウンドサイネージ、自働車の「ピピ」という音をどうデザインするのかが最近問題になっています。「自働車の中に鍵が入ってそうな音」をデザインしようと言っても難しい。音は意味づけ力が弱いんだろうか? と気になっています。音がはっきりと意味を持てるのは、ひらめいたときの「ピコーン」であったり、言葉とうまく結びついている場合が多いように思います。なので、結び付けられていない音のままでは指示の力は弱くなるのかもしれない。

難波 音で何かを指示するのって難しいんですかね?

MTさん いや、そんなことないと思いますよ。だって話し言葉はたくさん指示できるじゃないですか。

難波 たしかに!

MTさん ポイントは私たちが話し言葉以外の音を使ったコミュニケーションをあまり行ってこなかったということにあると思います。その理由の一つに音と光の指向性の違いがある。光は遠くまで届くし、しかし、遮ったりもできる。しかし、音は四方八方に拡がっていってしまう。

Mさん 聴覚は危険予知デバイスとして機能してきたのも重要だと思います。周りでガサという音が聞こえて、なんだ? と目で確かめる 。肉食獣だ、逃げよう! となる。そういうわけで人間にとっての視覚と聴覚の分解能や役割には偏りがあるような気もしています。

難波 発達言語学的な話を思い出しました。LとRを聞き分けることがネイティブ日本語話者に難しいのは、成長の過程でヒトが聞き分けるべき音と、聞き分ける必要のない音を判断し、脳が言語に合わせて音の分解能を調節していく、という話を聞いたことがあります。そういうわけで、言語では私たちは明確に音を聞き分けられますが、非言語の音の分解能は言語獲得のためにふだんは犠牲にさせられているのかもしれません。

MTさん まぶたと違って、耳は閉じられないというのも大きなポイントだと思います。聴覚は自動的に入ってきたものを取捨選択する。視覚の場合は顔を向けることでどんな情報が入ってくるのかを選択できる。そういうわけで、聴覚は分解能が捨象に慣れてしまっている、というのがありそうです。

Mさん 人は体内の音が聞こえないようになっているんですよね。内耳にマイクを入れると体内の心臓の音や血流の音が聞こえてくる。

難波 SF的に、ノイズキャンセリングはものすごく発達して、耳を自由に閉じれるようになった世界では、もしかしたら非言語の音コミュニケーションが発達していくんじゃないかな、と思ってわくわくします。

🐙記号論を使って何が新しく作れるのか?

瀬尾さん 西洋音楽だと、コード譜であったり、図式化することでさらに新しい
音楽理論が生まれたり、音楽表現が生まれたりする。これは記号化による新しいものの創造だと思います。しかし、記号化によって何かが生まれるのか、他の事例をうまく想像できないでいます。

Aさん デザインやビジネスフレームワークはたしかに理解を深めることはできますよね。

瀬尾さん さらにメタな視点で「この記号の使い方はいいのか、悪いのか」まで記号論で語ることができたらおもしろそうだと考えていますね。

Mさん オンライン上の空間設計では、現実のように物理的なルールに縛られる必要はないはずなのに、仕方なく現実を模した設計をしていることが多いと感じます。いま、空間を再構築する可能性があるのかな、と思いました。それから、楽器のプロダクトも2つの意味論が重なっていると思いました。デジタルの世界ではその関係性から解き放てるはずですが、実際はあまりにも物理的属性から離れたシステムは、奏者が演奏・制御できない、という課題に直面します。この時、システムがどの程度元の楽器が持つコンテキスト〔機能と形の組合わさりの歴史や意味〕を再現しているべきかというのは、対峙するユーザーによって変わると思います。楽器の形の意味と楽器の音という機能的な意味との意味論の組み合わせにはこう言った課題・面白さがあると思います。

難波 たしかに。ドアはドアの形をしている必要はないし、トランペットはトランペットの形をしている必要はなくなる。同じ視点でアバターのデザインも気になっています。目や身体や関節は人間と同じようにする必要がない。新しい人間の姿はどんなものでありえるんだろう、と未来が気になります。

おわりに

難波 今回は特にグッドマンのいろいろな概念をご紹介することで、デザインや表現の新しい分析の仕方を共有してみました。記号論の応用可能性はまだまだありそうですが、十分には探求しきれていないと自分自身思っています。なので、今日みなさんからいろいろなお話を聞けてうれしかったです。ありがとうございました!

一同 ありがとうございましたー!


難波 最後にグッドマンのプロジェクトの理由を聞いて終わりましょう。

グッドマンさん 私の目的は、次の論点についての体系的な研究に向かって歩みをすすめることに合った。すなわち、記号とはなにか。記号システムとはなにか、そしてそれらは我々の近く、行為、芸術、科学において––それゆえまた、我々の世界の把握と創造に置いて––いかに機能するのかということである(『芸術の言語』, 303)。

文:難波優輝

参考文献

N・グッドマン. 2017.『芸術の言語』戸澤義夫&松永伸司訳. 慶應義塾大学出版会.
Cohnitz, D. & Rossberg, M. 2006. Nelson Goodman. McGill-Queen’s University Press.
松永伸司. 2018. 『ビデオゲームの美学』慶應義塾大学出版会.


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