『多元世界のためのデザイン』をデザイナーと哲学者と実務家と一緒に読む / Designs for the Pluriverse読書会
デザインの未来を考える
「多元世界のためのデザイン」を提唱するこの本の内容を一言で言えば、この地球上でヒトが生み出す社会問題の診断と処方箋のスケッチです。
現代の社会的な問題は、わたしたちの世界の捉え方「存在論」「認識論」に由来するものだと診断し、その問題の解決の方向を、「存在論的デザイン」「自律的デザイン」という新しいデザインの態度に求め、その可能性をスケッチしています。
デザインを実践している方、特に、デザインで社会を変えるためには何ができるかを考えている人々や、哲学思想とデザインの関係が気になっている方と一緒に議論しようと考え、読書会では、デザイナー、哲学者、エンジニアをはじめとする様々なメンバーに来ていただき、本書のまとめをもとにディスカッションを行いました。
以下の記述はこちら4つの記事も参照しています。
読書会で目指したこと
この本は現代の問題の診断と問題への答え方の方向を示してくれていますが、問題の解き方を教えてくれてはいません。というのも、本書はデザインについての考え方の本で、実際にどうしたら多元世界のためのデザインが実践できるのかについては書かれていません。
そこで、今回の読書会では、前半ではエスコバルの問題の診断と、答えの方角を共有。後半では、その先にどんな問題の解き方があるのか、みなさんと一緒にディスカッションを行いました。読書会の様子をお届けします。
『多元世界のためのデザイン』はどんな本?
難波 この本は3つのパートからなっています。第1部「現実世界のためのデザイン」ではデザイン研究の歴史を振り返り、これまでのデザイン思想には社会問題の根本的な批判が欠けている、とエスコバルは述べます。
ICさん 余談ですが、第1章に入る前、裏表紙と序章の濃さで軽くぶっ飛ばされたことをお伝えしておきます。
難波 ほんとうにそうなんですよ。おやっ、難しいぞ、と思い、先に中身を読んでから冒頭に戻ったくらいです。今回はさらっと流してしまいますが、序章からエスコバルによる社会分析がぎっしり書かれています。
第2部「デザインの存在論的方向転換」では、デザイン思想に欠けていた社会批判を行います。エスコバル曰く、現代の社会問題の源泉には、良くない世界の捉え方=存在-認識論があるとされます。
瀬尾 ここで言う、存在-認識論ってどんなものですか?
難波 難しそうな意味ですが、この本では次のような理解でよいと思います。
難波 ちなみに、本編とは関わりませんが、エスコバルが考えている認識論は英米系の認識論の哲学で言われるよりも広い意味ですね。
🩺診断:存在的-認識的秩序とは?
難波 エスコバルは、近代の存在的-認識的秩序=近代的な存在論・認識論のセットが社会問題の源泉となっていると言います。
こうした存在-認識論をまとめなおすと次のようになります。
AKさん 個人主義なんだけど、個性はバラバラではない世界観なんですかね。
難波 エスコバル的には、もちろん個性はあるけど、みな同じ存在-認識秩序に従っちゃってるよ、という見方かもしれません。
ISさん 西洋的な個人主義、強い個人が前提になっているあり方ですよね。
難波 そうですね。日本でそのまま当てはまるかは考えるべきかもしれません。
瀬尾 「世界はひとつ」と言うと良い意味で使われがちだけど、、価値観がひとつしかない世界ということですね。
TMさん One-world worldってなるほどな表現ですね。
難波 1つの価値観で世界が覆われてしまう……そんなバッドな世界ですね。
TTさん 確かに、「言語」が様々な世界の壁となっていて、文化や民族が守られている、ということもありますよね。しかし、デジタル世界が広がることによって、同時に、その壁が障壁になっているのかなと感じました。
難波 なるほど。デジタル化が起こっても、互いをよく知ることができず、互いの違いを認められなくなってしまっている、というイメージですね。デジタルな分断を超えて、さらに互いの文化を知り合うことができれば、One World-Worldから抜け出せるかもしれません。
KTさん やっぱり何でも「コスパ」で語るような、ひろゆき的なものはいやですよね(笑)
難波 そうなんですよ。自分もこの箇所を読みながら彼のことを考えていました。人生のコスパ考えたら生きてること自体コスパ悪すぎですから、ひろゆきさんも生きている中で、経済には還元できない絶対にいろんな価値を大事にしているはずなんですよ。
エスコバルの診断は新しいのか?
HRさん エスコバルのこの4つの診断は、近代西洋の考え方を批判する文脈では、ある意味、穏当なものだと思います。
NGさん そうですね。私もそう感じました。
MSIさん エスコバルの新しい点は、きちんとフェミニストセオリーとラテンアメリカの思想を加えつつ、西洋批判の文脈をまとめ挙げている点だと感じます。
MTNさん 一点気になったところがあります。価値の多元性と認識論・存在論の多元性の関係はどうなってるんでしょうか?「経済がすべて」のところは価値に限定された話に聞こえますが、これは「世界は1つ」などとは論点のレベルが違っているように思えます。
難波 エスコバルは存在論と価値論をくっつけて考えているように感じました。
MTNさん それは分かりますが、1つの存在論を採用しながら、異なる価値論を採用できますよね。現実世界に何が存在するのかと、どんな価値を大事にしたいのかは別になるはずですね。
難波 エスコバル自身はあまり両者の区別を詳しく分離して考えていなさそうな気がしますね。何があるかないかを採用することで、どんな行動ができるか、どんな価値観が可能かが決まっているようなイメージがあります。
MRさん 違う話ですが、メーカーの活動ってほぼこの4つの概念の元に発展してる実感がありますね。個人主義的だし、世界がたくさんあるより1つだけの方が同じ製品が売れそうだし、科学的エビデンスで意思決定するし、経済主義だし……一度これらの考えで商売が始まると止まらないような感覚があります。日々話している実感と結びついていると感じます。
難波 エスコバルはたった1つの世界世界をより根本的に彼の考えかたに対立するものとして描いていると感じます。引用をして、彼の社会問題診断のまとめとしておきます。
💊解決:存在論的デザインの提案
難波 次に、エスコバルはこうした捉え方に変わる「存在論的デザイン」というデザイン態度を提案します。
存在論的デザインの根本には「関係性の存在論(Relational Ontology)」と呼ばれる考え方があります。これは、世界があらかじめ私たちを離れて存在するのではなく、私たちが関わることで世界が作られていく、という考え方です。それを印象づける表現を引用しましょう。
難波 存在論的デザインについての説明を敷衍するとこうなります。
私たちがデザインするとき、具体的なモノだけでなく、わたしたちの生き方-ものの考え方=存在論もデザインしているし、デザインされています。すると、悪さをしている世界の見方を直せるのもデザインということになります。存在論的デザインは、デザインをする際に、つねに、デザインしたものが私たちをどうデザインし返すのか? を考えて行われるものです。
例えば、iPhoneがある世界では、iPhoneが私たちに可能な行動の選択肢をつくっていきます。遠くの人とも連絡が取れるし、いつでもインタラクションできる。しかし、同時に、目の前に友人がいるのに、SNSのチェックに気を取られたりする。このように、デザインされたものは、私たちのあり方と価値観=存在論的・認識論的な性質もデザインする、とエスコバルは強調しています。
あるいは、雨に濡れてもすぐに乾く服や、すぐに髪の毛を乾かせるようになったら、雨が憂鬱、という価値観に変化が訪れるかもしれません。このようにデザインと価値観には深い結び付きがあるわけです。
関係性の存在論について
MSIさん 関係性の存在論はとてもおもしろいと感じます。エスコバルは"nothing preexists the relations that constitute it."(関係が構築する以前には何物も存在しない)と言っていて、この部分は結構エキストリームかなと思います。
IWさん 宮沢賢治的ですね……。
難波 関係性の存在論についてエスコバルは説明してくれているんですが、ややわかりにくく感じます。関係性の存在論のコアを説明するためには、自分が最近関心を持っているネルソン・グッドマンの世界制作論を参照するのが一番いいと感じます。エスコバルはグッドマンを一度も参照していませんが、グッドマンもまた、私たちが記号によって世界を制作するのであり、制作する以前には世界は存在するともしないとも言う必要がない、と言っています。こちらはグッドマンの世界制作論のまとめです。ちょっと難しいですが。
🧭未来:自律的デザインに向かって
難波 最後に、第3部「多元世界のためのデザイン」では、エスコバルの提示する存在論的デザインの内容を様々な社会運動やデザイン潮流をまとめながら紹介しています。
グローバルノース・グローバルサウスでのデザイン実践の事例を紹介し、トランジションデザインと社会イノベーションのためのデザインという二つのデザインの考え方を提案します。そして、最終章では、エスコバルがラテンアメリカでの運動実践を元に、様々なコミュニティが自分たちの未来を選択するために行う「自律的デザイン」というもっとも重要な考え方のスケッチが行われます。
エスコバルは次の概念を提案します。
難波 ここで、「自律」という新しい概念が出てきました。この意味を捉えるために、エスコバルが紹介する3つのあり方の区別を見てみましょう(こちらは訳や理解に関して以下の森さんの記事の訳も参照しています:https://note.com/dutoit6/n/n60b3ad156c49)。
二つの極をイメージしてください。一番上は、慣習がきっちり固定されている極。その反対側には、慣習が他人によって決められる、二番目の他律があります。そして、その中間に、自分自身で自分の規範=ルールを変えられる自律があります。
語源の話をして比喩的にイメージしてもらうと、-nomyとはギリシア語の「規範」「伝統」「掟」を意味する「nomos」に由来しています。「自律」という漢字がそのまま表すように、自らのノモスによって生きるあり方がAutonomyだとイメージされています。
自律的デザインを行うのは特定のコミュニティメンバーで、「自律的デザインとは、共同体がそうある姿としての実現に貢献することを目的とした、共同体とのデザインの実践である」(184)と言われたり、「共同体とは、物事の集合ではなく、統合された流動性なのである」(177)と言われています。
自律的デザインとは、ラテンアメリカで実践されようとしているデザイン実践を概念化したものですが、いまだ完遂されてはいません。エスコバルが取り上げるのは、コロンビアのカウカ川渓谷における開発への人々の抵抗なのですが……。
同じくこちらも、以下の森さんの記事の訳を参照しています:https://note.com/dutoit6/n/n60b3ad156c49)。
と、まだまだ完全な解決にいたるまでの明確なステップや戦略を描けているわけではありません。
ISさん エスコバルが使っている”デザイン”は、有形無形問わずアーティファクト全てって感じですかね。習慣とか言語とか含む。
難波 そうですね。言語そのもののデザインを考えてはいなさそうですが、コミュニティデザインや社会制度のデザインも考えていると思います。
IWさん 先住民やラテンアメリカの若者と対話したとき、完全に日本生まれ日本育ちの私には、彼らのdecolonizationの主張や問題意識を完全に理解することがすごく難しかったです。インターナショナルなMTGで彼らは西洋の人々の振る舞いや参加人数の比率、または文化の”盗用”にものすごくセンシティブでした。
難波 確かに、エスコバルも自分の思想がラテンアメリカ由来であることをすごく強調しています。ある程度自国の資源や産業が自分たちのコントロールのもとにある、という感覚を持っている日本人が意識してエスコバルの問題意識を捕まえないといけない気がしています。
自律的デザインのフレームワーク
難波 エスコバルは自律的デザインのフレームワークを提示しています(下図)。
こちらは、すべての前提として地球があり、その上で目指すべきものとして、右端の持続(sustainment)があります。現状を維持し続けられるサステナビリティではなく、環境との共生が可能な文明を作り、環境と生きる時代「環生世(ecozoic era)」の実現を目指すのが自律的デザインだと語られます。
この図の一番下のラベルは自分が追記したものです。自律的デザインは、空間と時間の二つの領域で実践されるもの、と自分は理解しました。空間で言えば、コミュニティが生きる具体的な場所である領域と、そこでの自律性が重視され、時間でいえば、コミュニティの祖先たちとの連続性や関係性を考えながら、未来の世代のための行動する重要性も指摘されていると思います。こうした時空間のなかで、地球上で調和を目指すのが自律的デザインなのでしょう。
デザインと介入の問題
MTNさん エスコバルの話を受けて気になったことがあります。みなさんはデザインと自律性、あるいは介入についてどんな感覚で仕事をされているんでしょうか? 例えば、次のどの立場で仕事していますか?
瀬尾 そもそもクライアント自身が目的を明確に持っていないケースが多いので、目的を明確化するところから始めることが多いです。逆に、世の中はこういう流れなのでこっちに進むといいですよ、と提案することはなく、ステークホルダーの話を聴いたり、ときにはリサーチやインタビューを通して一緒に課題感を明確化していき、手段を考えていくという進み方をします。そして、具体的な手段を考える中で目的もはっきりしてくる。なので、③、④あたりでしょうか。
今井 ②が気持ち悪いな、と思っていて、目的に口を挟むことはパターナルな感じがしますね。
AYさん クライアントだからといって、相手の目的に全部乗っかろう、ということはなく、自分たちの目的も叶う丁度いいところを探しています。自分を殺すところと自分がやる意義を考えます。
KTさん 生々しい話だと、日程がない中でできることが限られていると、②のあたりでぐりぐりとやっていくしかないときもありますね。
STさん クライアントが海外と日本で変わったりしますね。というのも、文化圏によって受け入れられるデザインに差があり、思い描いていた受容とは異なる受け取られ方をすることもあります。
瀬尾 市や行政の案件になると、市民が求めているものが直接発注に乗っていることは少ないんでしょうか?
ISさん 求められているアウトプットが同じでも目的が異なってくる。その目的を一緒に考えていくことを重視していますね。
ICさん 今日聞いていて、実務家に対する警鐘の本だな、と思いました。こうしたデザインの介入に関する話を普段デザイナーはうまくできていない。そもそもデザイナーはどんな立ち位置に立って行うべきなのかを考える必要を問われている本だと思います。与えられた仕様に沿えばよいわけではなく、つねにコミュニケーションが必要であること、そのことをデザイナー同士でどうやって議論できるかを考えたいですね。
誰のためのデザイン?
MTNさん 今のお話を聴いて、デザインとしての教育のことを考えました。教育は一方でパターナタリスティックなデザインです。あるべき人間の姿へと学習者を変化させるような。しかし、教育はいったい誰のために行っているのかを考えると難しいと感じます。社会一般のためなのか、教育を受ける人のためなのか。行政の難しさも、誰のために制度などをデザインするのかを決めづらいところにあるのかもしれません。
難波 たしかに。行政や教育における自律的デザインをどう考えることができるのか考えたいですね。
おわりに
難波 『多元世界のデザイン』の議論をまとめると、次のようになります。
エスコバルの多元世界のためのデザインとは、色々なコミュニティごとの目的に沿ったデザインのことだと思います。しかし、私が1つイメージしたのは、大量に作られるのだけど、あらゆるコミュニティで改変して用いることができるデザインです。それもまた多元世界のためのデザイン、自律的デザインに役立つデザインになる気もしています。こうしたものを始めとして、みなさんとお話する中で様々なデザインの可能性についてもっと考えていきたいと感じました。
この本の翻訳の準備がされているという噂を聞きました。早く日本語で読めるとうれしいですね
本日は、エスコバルを手がかりに、これからのデザインをどう考えていくべきか、いろいろな問いを見つけられたように思います。ありがとうございました。
(文:難波優輝)