多元的世界のためのデザイン / Designs for the pluriverse

Escobar, Arturo. 2018. "Designs for the Pluriverse: Radical Interdependence, Autonomy, and the Making of Worlds." Duke University Press. を読みました。

人類学者の視点からデザインを見つめ、ラテンアメリカにおけるローカルな民族運動を議論の下敷きとしながら、(1)二元論から多元世界 Pluriverse への存在論的転回を提唱し、(2)およびそのトランジションを通じて、地域を自律性 autonomy がある、コミュナル communal な形態で政治的に活性化していけるはずだと指摘した一冊。

人類学とデザインの重なりを広く印象づけた著。またデザイン文脈における二元論から非二元論(関係性)へのトランジションを文献を広く参照しながら整理していることから、サステナビリティやトランジション(システムレベル/エコシステムレベルでのデザイン)といったコンセプトが頻繁に登場する(という印象がする)Aalto大学のデザインシーンにおいても、よく参照されているような気がする(実際、本書にもAalto大学のデザイン理論家が何人か登場している)。

ここではおおまかに全体像を整理して示したい。

二元論への批判

エスコバルはまず、イリイチやフライ、パパネックらを引きながら、既存の二元論を批判していく。

特にAdamsの指摘をもとに、万博を引きながら、既存のデザインは政治的・経済的なイデオロギーの"道具"として、欧州中心的な観点から、"人間の階級をデザインしてきた"のだというくだりは辛辣だ。

(万博=いわば"デザイン"は)人種や文化の観点から、人々を階層的に分類する機械でもあったのである。」
"machines (中略) that is, the hierarchical classifications of peoples in terms of race and culture." (p.31)

そしてまた、この欧州中心的なアプローチが、私たちの生活から社会規範(いわば"当たり前の暮らし")すら切り出して外部化してしまい、「私たち自身では、それを生み出すことができなくなってしまった」と指摘する。

「これが意味するのは、元々当たり前だった慣行が、子育てや食事から、自己啓発、そしてもちろん経済に至るまで、明確に計算や理論化の対象になり、デザインへのドアが開かれたということである……社会的な規範は暮らしの世界から切り離され、専門家によるプロセスを通じて他律的に定義された。つまり社会的な規範は、コミュニティの内部(存在性)でも、ローカルレベルでの政治的プロセス(自律性)を介しても、もはや生み出すことができないのである。」
"What this means is that previously taken-for-granted practices, from child rearing and eating to self-development and of course the economy, became the object of explicit calculation and theorization, opening the door to their designing. ……social norms were sundered from the life- world and defined heteronomously through expert-driven processes; they were no longer generated by communities from within (ontonomy) nor through open political processes at the local level (autonomy)." (p.32)

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こうした流れの元凶が、デザインの伝統である合理主義、デカルト主義、客観主義…つまり「二元論 Dualist 」だ、とEscobarは指摘する(第3章)。

二元論については様々に分散して指摘されているが、ここでは特に重要なポイントとして、"ひとつの世界 One-World World"について触れておく。

One-World World (OWW)はジョン・ローによって、そのOWWを批判するためにつくられた造語である。

「OWWの概念は、我々はみな、ひとつの基礎となる現実(ひとつの自然)と、多くの文化から構成された、ひとつの世界に住んでいるという西洋の支配的な思想を示唆している。」
“The notion of the oww signals the predominant idea in the West that we all live within a single world, made up of one underlying reality (one nature) and many cultures."  (p.86)

すなわちここでは、西洋の・進歩的な・白人の文化を中心に、私たちが立脚する現実("正しい価値観/価値基準"のような捉え方がわかりやすいか)は、ひとつしかないのだ、という概念がOWWである。

二元論からの転換=存在論的転回

さて、ここで現代は危機に陥っている、という議論はわざわざ中身を確認するまでもないが、ここでエスコバルが指摘しているのは、この「現代の危機」とは(存在論的に言えば)あくまでのこの「ひとつの世界的世界 OWW の危機である」ということ。私たちが騒ぐ「危機」とは、西洋中心の、二元論的な世界が危機に陥っているという意味なのだ。

こうしたOWWの危機のもとで、「世界の多様性は無限である the diversity of the world is infinite (p.68)」という視点から、非二元論=ポスト二元論が台頭してきていることをエスコバルは大量の文献を紐解きながら描き出す。

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ここで特にエスコバルが指摘しようとしているのは、非二元論的世界、世界が「関係性のなかで」存在している、という考え方の存在である。

例えば、ヴァレラは認知をこう表現している。

「認知とは『世界の中の存在 being が行った様々な行為の歴史に基づいて、世界や精神を具現化させる Enact ことである』」
"cognition is 'the enactment of a world and a mind on the basis of a history of the variety of actions that a being in the world performs'." (p.81)

難しい文章だが、ヴァレラが言いたいのは、何かを認知するというのは、「物体が、動いた」のような、私とは離れた、独立した何かを見て分かる、ということではないということだ。いわば、なにかが行為 action すると、それに対して世界や精神が反応してしまう、反応させられてしまう enactment、そのことを認知というのだと。

ここで強調されているのは、「私が」「この物体が」独立で存在するのではなく、なにかが起きると、私もそれに応じて反応してしまう、それがまた何かを反応させるという連続…仏教的な言葉を使えば「縁起」的なネットワークがある、そうした関係性のなかにあるのが世界だ、ということだ。つまり、存在と世界は同一なのだ(ドリーン・マッシーの言葉を引いて、私たちは世界に「投げ込まれて Thrown Togetherness」いるとエスコバルは言っている)。

これをティム・インゴルドは「事物とは、その関係性のことである things are their relations」と、アン=マリー・ウィルは「デザインはデザインする Design designs」と表現している。

簡便な議論になることを恐れずに言えば、私たちが行為すると、その行為した相手がまた私たちに行為し返す。そういう、相互作用の連なりのなかで私たちは生きているし、私たちの世界とは、そういうものでしかない、というのがここでエスコバルが描きたい世界観である。

「なにものもそれ自体では存在せず、すべてのものは相互存在だ。私たちは地球上の全てのものと因縁でつながる存在である。」
"Nothing exists by itself, everything interexists, we inter-are with everything on the planet." (p.101)

こうした「関係性的な」世界の捉え方によって、垂直的なヒエラルキーを構成していた二元論的な世界、そしてその顕現であった「ひとつの世界 OWW」の存在は崩壊していくことになる。

この「ひとつの世界的世界 OWW」の存在のあり方が崩れ、別の世界へと、世界の存在のあり方が変容していくこと。これはOWW的な「中心と周縁」のような、二元論を乗り越えていくこと―非二元論、ポスト二元論へのトランジションを意味する。

世界のあり方が変わるということはすなわち、私たちの世界、私たちの存在を規定する基盤そのものが転回していくということでもある。こうした、存在のあり方の基盤が変容すること、これが存在論的転回である。

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存在論が転回するということは、私たちの存在のあり方が変わるということだけではなく、私たちが社会に対して、政治に対して、デザインに対して向き合うスタンスが変わる(ポスト二元論へ向かう)ということもまた意味している。

存在論的転回については、エスコバル自身の言葉でこう表現されている。

「(存在論的転回とは)私たちの現実を深く形作っているのに、社会理論がほとんど取り組んでこなかった多くの要因に焦点をあてていこうとする転換」
"the attention to a host of factors that deeply shape what we come to know as reality but that social theory has rarely tackled" (p.63)

この「社会理論がほとんど取り組んでこなかった多くの要因」とはなにか?それは、二元論で世界を具体的に見てみれば明白だ。

中心-周縁、男性-女性、理性-感情、人間-非人間、生物-無生物……

後者の側が、これまでの二元論において「抑圧されてきた repressed 側」である。エスコバルは言う。

「(存在論的転回とは)二元論における、被抑圧側の復活―上記の全ての二元論 binaries の、従属化され、女性化され、人種化された側の、力強い勃興
"the return of the repressed side of the dualisms―the forceful emergence of the subordinated and often feminized and racialized side of all of the above binaries" (p.64)

自律性とコミュナルな形態=Designs for the Pluriverse

こうした存在論的転回のもとで、トランジションデザインを通じて、私たちはより地域に根ざした観点から、自律性とコミュナルな形態をもつトランジションに取り組んでいける、と指摘するのが第三部だ。

トランジションデザインとは、日本語に直せば「変容のデザイン」「移行のデザイン」。いわば社会全体、エコシステム全体が大きく変化していくことをリードしていくデザインのことである。

「トランジションデザインは、より持続可能な未来に向けて、デザイン主導の社会変革を提案する。社会システム、経済システム、政治システム、自然システムの相互関連性を理解することで、貧困、生物多様性の喪失、コミュニティの衰退、環境悪化、資源、気候変動など、生活の質を向上させる方法で、あらゆる規模のレベルに存在する問題に対処することを目指する。」
"Transition design thus proposes design-led societal transformations toward more sustainable futures. By applying an understanding of the interconnect- edness of social, economic, political and natural systems, it aims to address problems that exist at all levels of scale in ways that improve quality of life, including poverty, biodiversity loss, decline of community, environmental degradation, resource, and climate change." (p.156)

こうしたトランジションデザイン的な考え方を、エスコバルは南米の民族運動の実例へ適用していこうとする。

*

ここで、グスタボ・エスタバによる3種類の「社会的自律性」が示される…以下は、民族(集団)は、どのような「規律性」のもとにあるか、の3類型を示している。

・オントノミー(Ontonomy 存在性):規範が伝統的な文化的慣習によって確立されている場合、それは内生的で場所に固有のものであり、埋め込まれた集団的プロセスによって歴史的に修正される。
・ヘテロノミー(Heteronomy 他律性):伝統的な文化的慣習によって確立された規範。規範が(専門家の知識や制度を介して)他人によって確立されている場合、それらは普遍的、非人称的、標準化されたものとみなされ、合理的な審議や私的な交渉によって変更される。
・オートノミー(Autonomy 自律性):内部から規範を変えるための条件がある場合、あるいは伝統を変える能力がある場合。それは、いくつかの慣習を守り、他の慣習を変え、新しい慣習を真の意味で発明することを含むかもしれない。

非常に大雑把に理解するならば、オントノミー 存在性はいわば"素朴な"状態であり、歴史、集団、慣習によって集団が維持・修正されていく状態だ。

ヘテロノミー 他律性は他者に支配されている、という見方もできるが、日本も「ここにいる私」とは無関係に、生まれたときから憲法が決まっている、という状況を考えれば、日本(の大部分の集団)も他律的であると言える。

オートノミー 自律性はそれに対し、民族/集団の条件や規範を、自分たちで変えていく力がある状態だ。

もちろん、エスコバルは民族がこの「自律性 Autonomy」を獲得することを目指しているが、この自律性は支配-被支配の二項対立=二元論のなかに位置付けられる自律ではないことは注意しておきたい。ここでエスコバルは、自律性を求める動きは、他者との関係性、対話を要求し、むしろグローバルな様態を指向するもので、原理主義や集団内部の同質化を目指す動きではないことを注意深く指摘している。

「それは、従来の見解に従った『グローバル』の中に『ローカル』を挿入することを意図したものではなく、自律的な動きを相互に結びつける、一種の場を基盤としたグローバリズム(Osterweil 2005)である。」
'not intended to insert “the local” into “the global,” following conventional views, but a type of place-based globalism (Osterweil 2005) that connects autonomous move- ments with each other.' (p.181)

更にここで、コミュナルなもの Communal / Comunalidad は、メキシコ南東部の地域に住む人々の生活様式を示す新語であり、ポスト二元論的な基盤を持つものであることが示される。

「共同体とは、物事の集合ではなく、統合された流動性なのである。」
"The communal is not a set of things, but an integral fluidity." (p.177)

こうした、自律性とコミュナルな形態とを併存させようとエスコバルが提唱するデザインのありかたが「自律的デザイン Autonomous Design」である。

「自律的デザインとは、共同体がある種の実体としてその実現に貢献することを目的とした、共同体とのデザインの実践である」。
"Autonomous design—as a design praxis with communities that has the goal of contributing to their realization as the kinds of entities they are"  (p.184)

ここでは自律的デザインの5つの前提条件が示されているが、ここでは2つだけ引いておく(エスコバルが示す条件は、量が多い)。

1. すべての共同体はそれ自身のデザインを実践している
Every community practices the design of itself
2. すべてのデザイン活動は、人々が自らの知識の実践者である
people are practitioners of their own knowledge

こうした自律性とCommunalな形態の実現を目指すデザインにおいては、以下の両者が個別的に動くのではなく、自律性 Autonomy によって接続されることをエスコバルは指摘している。
- 個人/集団のWell-being (個々人のLife Project)のレベル
- 領土/地域問題(政治的プロジェクト)のレベル

「自律性は、地域・領土の防衛を中心とした社会運動の政治的なプロジェクトと、ヴィヴィル・ビエン(すべての人、人間、自然の幸福)を中心とした共同体の生活プロジェクトの明確化を伴うものなのである。」
"Autonomía involves the articulation of the life project of the communities, centered on the Vivir Bien (the well-being of all, humans and nature), with the political project of the social movement, centered on the defense of the region-territory." (p.186)

この自律性に関する指摘は、南米の民族運動を超えて、日本の"地域"―「都市と地方」としての地方―に根ざしながら、その内側において自律性を高めていこうとするデザイナーたちにとって、刺激的な宣言だと言えるだろう。

こうした気付きに応えるように、エスコバルはここで、絶望からのデザインとでも言えるような、The Cauca River Valleyにおける思索的な思考実験を行っている。

「しかし、開発主義的な想像力が地域のほとんどの人々と、もちろんエリートの支配力に支配されているため、これらの未来は現時点では考えられない。(中略)このような状況下で、トランジション・デザインを行うことは可能なのだろうか。さらに、それは政策、マインドセット、行動、実践に何らかの影響を与えることができるのだろうか。
"Nevertheless, these futures are at present unthinkable, such is the strength of the hold the developmentalist imaginary has on most of the region’s people and, of course, the power of elite control. …… Under these conditions, is a transition design exercise even possible? Moreover, could it have some real bearing on policy, mind-sets, actions, and practices?" (p.191)

私たちがすべきは絶望することではない。成功している地域もある中で「なぜそうではないのか he question arises, why not? (p.194)」だ。ここでは「デザイン空間」の創出によって、「可能性の空間」…新しいデザインが生まれうる余裕がある状態をつくっていくことが重要だ、と示している。

*

最後にエスコバルは、ナサ族の活動家の言葉を改めて引いている。そのうちから一部を引こう。

「そして、自律性といえば、それは非常にシンプルなものである。私たちがそうしろと言われたようにではなく、私たちが好きなように生きること。ボスが誰であろうと、そうせよと言われたようにではなく、私たちが望むほうへと人生を歩むことである。」
“speaking of autonomy, it is something very simple: to live as we like and not as is imposed on us. To take life where we want it to go and not where a boss—whoever he might be—says we have to be.“ (p.199)

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森の議論に寄せて

簡単に、森の議論に関わる部分にコメントしておきたい。

ひとつは、存在論的デザインが自由の議論にもたらす影響について。

「存在論的に志向されたデザインは、「選択肢の幅を広げる」(自由主義的な自由)ことが目的ではなく、私たちが望む種類の存在を変革することが目的です。この意味で、非資本主義、ポスト資本主義、非自由主義の可能性を秘めています。」
"(Ontologically oriented design)…Is not about “expanding the range of choices” (liberal freedom) but is intended to transform the kinds of beings we desire to be. In this sense, it is potentially noncapitalist or postcapitalist and nonliberal." (p.133)


二元論的な意味での自由とは「選択肢の幅を広げる」ことにあった。しかし非二元論的な=存在論的なデザインは、「望むありかたである」ことを指向する。

ここでは、先日のつらつらメモでも既に述べているように、森の自由論自体が変容していることと共鳴しあっている点が極めて興味深い。

すなわち、森自身の存在論が関係論的なものへと変化(というよりは、自由論と関係論が統合)しつつあることから、いま、森の自由論は2軸に伸びている。

ひとつが「できるということの確信をつくる」というものであった。これはすなわち、選択肢をいかに増やすか、いかにそこにたどり着く道を増やすか、といった内容であった。これは既に検討した通り、個人主義的な=二元論的な観点からの「自由」であった。

近年ではここから、自由とは望むようにありたいことだ、「自然さとしての自由 Freedom as natural state」という概念があるのではないか、という議論を導出している。これが関係論に結びつくことは薄々と感じていたが、ここで人類学/デザインの領域から、エスコバルにこれを指摘されるとは。

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また、もう一つが地域論としての自律性についてである。特にエスコバルでは、Manziniらをはじめ、「地域、場所が重要だ」との指摘が増えてきたことを指摘している。エスコバルもまた、自律的デザインとしての「内側からのデザイン」に関して言及している。

こうした、デザイナー - クライアントという二元論的関係における、外部からのデザイン、外部者としてのデザインではなく、より内側に入り込む形で「ともに参与するデザイン」が増えていること、デザイナーでありながらユーザーであるというあり方が増えていることは、日本でも福井や山形に関心を預けながら、強く感じてきていたし、実際僕もそういう立場をとるデザイナー(というかまちの人)でありたいと思っている。

しかし、これが実際にエスコバルの豊富な文献から文脈を指摘されるのはなかなかおもしろいな。

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このあたりは、この流行に乗って、グローバルなディスコースにおいて、日本人デザイナー/研究者の言説が広がるべきだ。

すなわち、それは南米/民族運動的でもなく、そしてまた欧州中心でもなく、"先進国でありながら、非西洋である"という、実際的にも思想的にも絶妙な立場から、先進国に提言できる極めて強い政治的メッセージがあるはずだ。

また同時に、ここで示された非二元論は既にエスコバルが指摘しているとおり、仏教思想である。ここで自律的デザインと、仏教思想とを兼ね合わせて、先進国への反射を提出できるのは、正に日本の立ち位置なはずで……、てか、それもしかして俺が書くんか。そうか……。

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最後に。読んで整理するの地味に割と大変だったので、よかったら最後のところから、少しカンパもらえたらうれしいです。お読みいただきありがとうございました〜!

▷ twitter https://twitter.com/moririful 

参考文献

日本語→

その他、パウロ・フレイレ、D・ショーン、ティム・ブラウンなど。

英語。読まなきゃなあ…→


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