行政も民間企業も住民も同じと伝え続ける理由
自助、共助、公助という言葉がありますが、みなさんこの言葉にどんなイメージがありますか?
今回は私たちの被災当時の状況も含めてお話します。
2011年3月11日
あの当時、私含め主人やきょうだい、両親の仕事はそれぞれ石油関連会社、運輸会社、飲食関連会社、サービス業、自営業者でした。
あの日主人はたまたま仕事が休み。
私は勤務が終わり14:46はすでに帰宅していました。
兄や両親などはそれぞれ職場に。
14:46
地鳴とともに経験した事のない揺れと轟音の中玄関を飛び出ました。
その数時間後、私の父は職場の作業着のまま私たちの自宅に寄りお互いの無事を確認し、祖父母のいる自宅へ安否確認しに車を走らせました。
父の職場は私たちの自宅から車で20分ほど。あの日はどれだけ時間がかかったのでしょうか。
(父は当日ドコモでしたが携帯は不通)
その後兄も職場のトラックのまま私たちの自宅に安否確認に来ました。たまたま近くを配送中に地震に遭遇。
更に配達中に地震に見舞われ地面がバリバリ割れていくのを目の当たりにしたと話していました。
その後兄は自宅に向かっていきました。奥さんとは携帯で安否確認ができていました。
(当日ソフトバンクでiPhone使用、通信可能)
母は自営のため1番倒壊の恐れがある建物にいました。もう1人の兄が安否確認に行ってくれた事により生存確認。
(固定電話は不通)
みんなが近くにいたのが奇跡的でした。
私も主人も職場とも職場の人とも連絡が取れず、その晩に暗闇の中徐行しながら主人の職場に向かいました。
主人の職場は壊滅状態。ガラスが全くない。鉄筋コンクリート作りなのにあちこち崩れている。
職場の人はどうしたのだろうか?生きてるだろうか?心配になりながらも明日からどうするべきなのか?わからぬまま。
私は次の日に職場を見に行くとやはり店は閉まっており中身は空っぽ。地震直後の大混乱が目に浮かびました。入り口には張り紙がされていて従業員への伝言でした。【みなさん無事ですか?しばらく休業します。電話が繋がらないのでここに残します。また再開する場合に連絡します。】
その後3月中旬より出勤して欲しいと言われ出勤。
私の父は地震発生後電話が通じるようになってからすぐ会社から電話があり、ガソリンを確保するから出勤してくれという連絡により出勤。
食品関連だったため毎日毎日有る食材だけで惣菜を作り被災者へ届ける日々。切り干し大根ばかりを。
兄は運輸会社勤務。3月中旬から順次支援物資輸送中の看板をつけて宅配が始まる。
主人は電話が繋がるようになってからやはりすぐ出勤命令となる。みんなが石油を求めていた。
まだ3月。東北の3月はまだ極寒。
もう1人の兄も小売店勤務のサービス業、やはり通話可能になってすぐに出勤の連絡。
ここまでの話、みなさんの被災イメージと現実はどうですか?
どの被災地もきっとあの日から道が壊れていても、ガソリンが無くても、倒壊していてもみんながみんなのために全力だったと思います。
ここでは詳しくは割愛しますが、それぞれの勤務先には助けられました。石油関連、食品関連、物流関連だった事もあり従業員への対応も早かったと記憶があります。BCPがきちんとしていたという事もあるかとおもいます。
とにかくどこもスピード感は早かったです。
言うまでもなく、行政の方々、消防、警察、自衛隊の方々、病院関係の方々は発災直後からいつ休んでるのか。というくらい全力で被災者支援を行っていました。
住民も被災者
行政関係者も被災者
警察、消防関係者も被災者
病院や介護施設関係者も被災者
みんなが被災者
でも
みんなが支援者
みんながそれぞれみんなのために頑張っていたあの時。
みんな立場は違えどみんながそれぞれみんなのために行動していたからこそ【生きていく】事ができた。
だからこそ、行政も民間企業も住民も同じと伝え続けています。
ひとたび災害が起こればみんなが被災者でありみんなが生きるために一生懸命になります。
誰が偉いとか、誰か優れているとか、誰がすごいとか、関係なく皆、被災者となる。
人はやればできるんですよね。
人は人のために動く事ができる。
でも忘れちゃう生き物であり、それもまた生きていくためには必要な事でもあります。
けれど、この未曾有の災害から何を学び何を生かすのかを考えるために知る事。
知る事で考え課題が見つかる。
またあの時他府県のパトカーをみた時にはグッとくるものがありました。
何故なら。。
原発事故により福島県に入りたく無いという方々が沢山いるなか、公助の人たちはこうして街を守りにきてくれているという事に感謝の気持ちでいっぱいでした。
ご家族はどんな気持ちで送り出してくれたのだろうか….
実は主人は沿岸部の被災地域へ応援に行かなくてはいけなくなり何時間も同僚と相乗りで沿岸部に通い防護服を着ての勤務する時期があった。
本音としては行ってほしくなかった。が、他府県からの支援者の人たちを考えた時に【頑張ってきて!】と送り出すしかなかった。
また、私の母は自営業者だったのでお店の再開はしばらくできなかった。もともとお客さんの中には行政関係者の方、病院関係者の方も沢山いたので再開後に安否を心配され訪れてくれた方の中でも、行政関係者の方で忘れられない話がある。(これは被災後2ヶ月ほどたって聞いた話です)その女性は【原発事故で正直自分も子どもを連れて福島を離れたい。でも仕事柄それは無理。だから祖母に子どもを託し避難してもらった】というこの話を聞いた時に初めて行政の人の立場というものを実感した。私はこの話を聞く前に実は市役所の窓口で少し落ち込む言葉を職員に言われて言われていたからこそこの話を聞いたとき、あの時の窓口の人の言葉が蘇ってきた。なんだか申し訳ない気持ちになった。
避難したくても避難できない人が沢山いる事。仕事柄それを口にすら出せない人がいる事。
みんなそれぞれの葛藤の中で精一杯考えて判断してきた。だからこれが正解という答えはない。
被災者の数だけ答えがある。
そして人の数だけ備え方がある。
被災地、災害現場というのはこれだけ沢山の人が関わりみな同じ【生きていくため】に力を合わせる。それを目の当たりにしてきたからこそTEAM学防災のイベントでは行政も民間企業も住民も同じフィールドで活躍してもらう。それは被災時、災害時はそのお互いの姿は見えない。でもそれぞれの立場でみんな同じ思いで動いている。実は平時だからこそ見れる互いの姿であり知ることができる姿であること。
そんな思いを込めている。
平時だからみんな笑顔で会える。その姿をそれぞれが知る事は災害時の理解にも繋がる。それは立派な【理解という備え】に繋がる。
自助も共助も公助は日常の延長線であり特別ではない。それならば日常ももっと近い関係でもいいと思う。だからこそTEAM学防災は垣根を超えていく防災にチャレンジしています。
いつかそれがまた誰かの助けとなるように。
だいぶ内容は割愛しています。
また機会があればあの日の記録も記していきます。
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