言い間違いと聞き間違いと勘違い

「おしょくじけん」のような聞き間違いは、誰にでもあるものだ。

中学の修学旅行は、広島だった。私たちはバスに乗り、現地の方の話を聞いた。幾度となく語り部の方が発する「ゴイコツ」を、私は「骸骨」の方言だと信じて疑わなかったが、その後のクラスメイトとの会話のなかで「ご遺骨」だったことを知った。

中学生にもなれば、勘違いのレベルもなんだか高いような気がする。などと、自分で言うのもおかしな話だが。

しかし息子が生まれて、小さな子どもの言い間違いや聞き間違いはとんでもないなと感じる瞬間は多々あった。
長男は1歳くらいの頃、いちごを「ホッチギ」と言っていたし、牛乳のことはなぜか「アリヤマ」と呼んでいた。何のことかは忘れたが「ホギィ」という食べ物も、彼の中には存在していた。
幼い彼にはそう聞こえたのだから仕方がないが、「どこでそうなったん」と誰しもにツッコまれた記憶だ。

また、息子たちは「蚊がいる」「血が出た」といった一文字のワードに弱かった。「カガがいる!」「チガが出た!」と、意味不明なことを言うのも、幼いから「かわええのう」と微笑ましく見ていたものの、年齢が上がるにつれて「チガがじゃなくて、血が」「蚊だから」と、一応訂正はした。
いまとなってみれば、一過性の言い間違いや勘違いなど、特に問題がなければ可愛いから放っておいてもよかったろうにと思う。

子どもの勘違いによる言い間違いは、ほかにもある。長男が「千と千尋の神隠し」にハマっていた4歳前後のことだ。
千尋にリンが大きなまんじゅうのようなものを持ってきて「食う?かっぱらってきた」というシーン。彼はあれを再現したかったのだろう。
唐突に私の隣に座り、持っていたおもちゃを差し出し、「食う?酔っ払ってきた」と、静かに放った。

頭のなかはクエスチョンマークだらけだったが、「あ~千と千尋か」と思うと、愛しさと切なさとおかしさで心がいっぱいになった。

年齢が上がるにつれ、勘違いや聞き間違いによる言い間違いは減っていった。しかし先日、小学校低学年の長男が夕飯に「納豆が食べたい」と言ったのちに、奇跡は起きた。

その日はおかずも多かったため、「納豆は明日にしなよ」と返事をした。比較的聞き分けのよい長男は、珍しく悲しい顔をして「えー…僕、今日はばんごはんに納豆が食べられると思ってハキハキしてたのに」と言ったのだ。

「納豆が食べられるぞ!」と思って1日機敏な動作で過ごしたのだろうか。いや、そんなはずはないぞ。
私の脳内では瞬時に会議が開かれ、間もなく「ハキハキ」ではなく「ワクワク」だったことを理解した。

「それってハキハキじゃなくてワクワクとかさ…ウキウキじゃない?」と半ば呆れた様子で聞き返したところ、長男は恥ずかしそうにモジモジとしていた。が、ハキハキするほど食べたかった納豆なので、それでも彼は諦めなかった。

結局ばあばの「そんなに食べたかったなら食べさせてやりなさい」という鶴の一声で、長男は納豆を食べる権利を得た。ハキハキしなければ、恐らく食べられなかったので、それはそれでよかったのではないだろうか。

いろいろと振り返ってみると、次男は長男よりも言い間違いや勘違いは少ない気がする。が、彼はアレルギー症状の出る「ナッツ」にピーナッツが含まれているといまも信じている。本当はそんなことはないのだけれど。

言い間違いや聞き間違いは誰にでもあるし、勘違いだって少なくない。それを「かわいい」と笑ってしまうのが親心だが、そろそろ「恥らい」という感情が芽生えてきた息子たちは、私が笑ったらいつか「笑ってんじゃねーよ」「うるせえ!」などと反発するのだろうか。

いずれ訪れる本格的な反抗期を思いながら、今日も私は「息子たちはまだ小さい」「大きい赤ちゃんだから大丈夫」と、盛大に勘違いをするのだ。

#創作大賞2023 #エッセイ部門

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