死について考える人は個性的か?|映画『時々、私は考える』感想
「愛子ちゃんは何か勘違いしてるけど、世の中すごい人ばっかりじゃないよ」
と夫に言われたタイミングで観た映画。登場人物が全員見事に「すごくない人」しかいない。
主人公はアラサーくらいの女性。人付き合いゼロ、趣味ゼロ、生まれてから就職までずっと同じ港町に住んでいて、10人弱の社員が彼女の世界の全て。幻想的な死の妄想に耽るぐらいしかやることがない。そこに1人のフレンドリーな男性が転職してきて親しくなるが…というあらすじ。
個性や多様性を喧伝されすぎて何が個性なのか完全に見失った世の中で「世の中すごい人ばっかりじゃない」と感じさせるこの映画を、①「個性的」な同僚、②平凡コンプレックス、③世界は凡人たちでできている、の3つの観点で掘り下げたい。
公式サイトや予告編以上のネタバレはしていません!
①「個性的」な同僚
好きな食べ物でどう個性的に自己紹介するのか?
主人公が総務なのは辛うじて分かるが、社員は雑談シーンでしか登場せず、というか雑談しかしていないので、海山商事レベルで何してるのか分からない会社が舞台である。会社名も出てこない、あえて無個性に描かれた会社である。
一部屋に全員入りきる全社MTGで、「私たちはみんな個性的よ」という最悪な前置きの後に「名前と好きな食べ物」を自己紹介するシーンがある。好きな食べ物縛りの中で、どう個性的に振る舞えばよいのか?
予想通り、全く個性的でない話が続く。他の人が答えた食べ物には誰かがリアクションするのに、主人公が答えた食べ物には誰もコメントできず沈黙が流れる。この気まずさをスクリーンで観せられるなんて。これは本当にアメリカの企業なのか?こんな空気になるのは日本の学校か零細企業だけだと思ってた。
その「個性」って逆にステレオタイプですよね?
確かにアメリカなので人種の多様性はあるし、皆さんデコボコな感じの社員なのでいわゆる「個性」はあるだろう。ただし、「ふくよかな女性が見た目通り食いしん坊キャラで、場を和ませるムードメーカー」という周囲や彼女自身が「個性」だと思っているものすら、個性のステレオタイプにハマっている。
要は、個性なんて他人との差異や共通点を見つけられる程度の際立ちでいいのである。個性がキテレツな必要などなく、「あの人は食いしん坊なムードメーカー」と他人をラベリングできるなら、それが充分個性である。むしろキテレツな同僚など基本的には求められていない。
そもそも、同僚ぐらい距離感のある人々の個性なんて「食いしん坊なムードメーカー」以上の粒度で捉えられないだろう。もしあんまり仲良くない人が「私、自分が死ぬところをよく想像するんですよね」と言ってきても、多分うまく返事できない。そう、この映画の主人公の唯一際立っている「個性」は、たびたび死を夢想することなのである。もちろんそれを誰にも言えずにいる。そんな個性は誰も求めていない。主人公はただの「全然喋らない人」という枠内に留まり続けていた。
②平凡コンプレックス
「つまらない=悪」ですか
主人公は、好きなものは仕事(表計算ソフトが得意だから)、一人の時間はナンクロを解いて、片田舎から一歩も出たことのない人生。でもふとした瞬間で脳内では「幻想的な死の空想」が繰り広げられているというのが、主人公としての輪郭を唯一際立たせている。平凡すぎて死にたくなっているというよりは、平凡な彼女が唯一平凡さから離れられるのが、その「死の妄想中」なのだろう。
そんな時に転職してきた男、ロバート。観衆が「え?この人大丈夫なの?」と思うような設定がチラホラ出てくる謎の男だが、主人公に平凡コンプレックスがあるからか暇だからか、急速に惹かれていってしまう。
そりゃ無趣味の主人公よりは社交的な生活を送っていそうだが、ロバートも先に述べた「個性の型」にハマっている。「いつもフレンドリーで、気さくに話しかけてくるキャラ」という枠に収まっている限り、ロバートは職歴や恋愛遍歴など不都合な設定の数々を隠せているのだ。
私が「つまらない」のはあなたがどうでもいい人だから説
平凡で死ぬ妄想ぐらいしか個性がないと感じている主人公は、もしかしたら過去に後ろ暗いところが何もないのかもしれない。大きな悔いも過ちも何もない大人になると、ある意味無垢な、平坦に見える人間ができ上がるのではないか。
でも人生に何も起こっていない人間なんてあり得ず、「何が起こったか」「私はどういう人間だ」と話せて一定の理解をしてくれる相手さえいればいい。その他大勢に向けた「個性」なんてもう、一番外側に身につけているアクセサリーみたいなものである。
奥底にあるドスのきいた「個性」は、逆にパッと見では誰にもわからず、見せたところでドン引きされるだけで、限られた人間にしか見せられない。
③世界は凡人たちでできている
①②で述べてきたように、観衆の我々は小さい港町の小さい企業の人間関係を延々と見せつけられる。ムズ痒くなるほど、みんなモブ感が強い。正直、スター不在の映画である。
しかしそんな時、主人公が興味を持っていなかった外界のモブたち(失礼)にも、一人ひとりストーリーがあることを知る。誰もが人知れず苦労して、奇跡的に小さい職場に居合わせて、たまたま出会った人にそれを打ち明ける。
全ての人間は誰かと誰かの遺伝子の出会いから産まれてきたわけだが、そのうち99.999%ぐらいは平凡な人同士であるはずだ。でもその当人同士にとっては、お互いを平凡だなんて思えないだろう。
ここで再度、冒頭の「世の中すごい人ばっかりじゃないよ」を思い出す。
平凡な人が、また別の平凡な人に出会って、そのお互いだけは平凡じゃない。小さな小さな「個性」は、とりあえず目の前の誰かだったり、同僚数人だったりに向けられたらいい。
大多数に向けた個性だけあっても逆に没個性なので、まずはマイクロな個性に目を向ける。目を向けてもらう。見てもらえるよう、自分から近づく。
そうしたら私たちは、死を夢想することなく生きていけるのではないか。
遠いアメリカだけでなく、その辺の零細企業や田舎町で起こっていそうな人間関係を浮かび上がらせる作品。私たちにとってはモブでしかない一人ひとりの人生にも、きっとこんな物語が起こっているのだろう。
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ポスターが抽選で当たって嬉しくて書いた感想noteでした笑
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