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【1話完結小説】除菌シート

「他に好きな人ができたの。あなたと違って私の事をいつも『可愛い』って構ってくれる優しい人よ。だから、さよなら。」
彼女はいきなりそう言って僕の返事も聞かず背を向けた。カツカツとハイヒールを鳴らして遠ざかっていく後ろ姿をぼうっと見つめる。

その時、僕はおかしなモノに気がついた。振り向きもせず去っていく彼女の肩の上で、小さな紫色のお爺さんがシシシと嬉しそうにこちらに手を振っているのだ。まるで目の前で起こったカップルの破局を喜ぶような嫌らしい笑顔。良くないモノだという事は一目ですぐ分かった。

二股した挙句に去っていく彼女の身など無視して、このまま見過ごす事もできるけれど…僕は一瞬考えたのち駆け出した。
「ま…待って!」

彼女の肩を掴むフリでお爺さんを叩き潰す。ペギャッ!と変な声をあげて潰れたお爺さんの体から緑色の体液が溢れ、僕の指の間から流れ出る。

彼女が振り向いた。
「…何?」
引き止められるとでも思っているのだろうか。ドラマチックなセリフを期待しているかのようなその潤んだ瞳と媚びるような声に触れた瞬間、僕は何故だか唐突に醒めてしまった。

「…何でもないよ。どうか元気で。」
そう言って手を振ると、彼女は何か言いたげな様子だったが、結局何のアクションも起こさない僕に愛想を尽かしたのか再びこちらに背を向け歩き出した。

僕は持っていたアルコール除菌シートで緑色に汚れた右手を念入りに拭き取りながら、彼女が曲がり角を曲がって見えなくなるまでその場で見送った。お爺さんの体液は、見た目に反してほんのり甘い良い匂いがした。

すぐに、よく分からない黒や緑のモヤモヤした何かが、そこら中の植え込みや水溜りの中から湧き出してきた。それらは、肩にベッタリ緑色の体液(なんならお爺さんの死骸も)をつけたままの彼女を追うように、角を曲がって一目散に飛んで行った。

不幸の甘い香りはさぞかし悪いモノを引き寄せるのだろう。僕はポケットに手を突っ込んで、彼女とは反対の方向へ歩き出した。いつかこの日の事を後悔する時が来るだろうか。


しかし、あらためて街をよく見れば、紫色のお爺さんも黒や緑のモヤモヤも至る所に存在していた。道端にも、ポストの上にも、あなたの肩にも、僕の肩にも_____。以来、僕は除菌シートが手放せないし誰とも付き合えない。


あの時の彼女は今ではもう結婚しており、二児の母らしい。さっきドラッグストアで偶然出会った知人がそう言っていた。僕はと言えば残り少なくなった除菌シートを買う事ばかり考えていて、まったく何の感情も動きはしなかった。

end

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