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【1話完結小説】隣人

ある春の朝、私はむずがる3歳の息子をマンション下の公園に連れて行こうといつもより早い時間帯に玄関を出た。
出たところでちょうど隣室のドアも開いた。このマンションに越して3ヶ月、隣人と初めての遭遇だった。今から出勤するのだろう。パンツスーツとヒールが板についたアラフォーと思われる女性だ。
「あ、おはようございます」
思わず声をかける。何度か引っ越しの挨拶に伺ったのだが、タイミングが悪く今まで会うことができずにいた。
「おはようございます」
女性がゆったりと微笑む。人の印象は会って3秒で決まるというが、なんとなくこの女性は会社でもなんらかの役職についているような気がした。落ち着いて、物腰柔らかで、どことなく余裕があって賢そうな…要するに私とは違うタイプの人間だ。
「あのっ、ご挨拶できてなくてすみません。3ヶ月前に越してきた吉野です。何度かお伺いしたのですがお留守だったようで…タイミングが悪くて…本当はお菓子もお渡ししたかったんですけど賞味期限が…」
必要もないのにペラペラと早口で言い訳のように捲し立てる私。
女性は相変わらず微笑んだ顔で
「お気になさらないで下さい。私もフレックス制で就業時間が不規則なもので。せっかく何度もご足労頂いたのに申し訳ありませんでした。私、佐々木と申します。よろしくお願いしますね。」
と答えた。
女性は続けて、私の足元で固まっている息子に向かって声を掛けた。
「君がハルヒ君だね。よろしくね。」
「えっ」
私は違和感を覚えた。春陽の名前を、なぜ佐々木さんは知っているのだろう。このマンションはプライバシーの観点からどこの家も表札を出していない。まして下の名前なんて尚更分かるわけがない。現に私だって隣室の彼女の名字が佐々木であると今知ったくらいなのだから。
私の不審そうな表情を読み取ったのか、佐々木さんはゆったりと言った。
「ああ、ハルヒ君の名前はね、毎日吉田さんが呼んでおられる声が聞こえてきてね。だから知ってるのよ。ふふ。ではそろそろ失礼しますね。」
佐々木さんはコツコツとハイヒールを鳴らして突き当たりのエレベーターに乗り込み、私の視界から消えていった。

春陽が
「ママ、早く公園!公園!」
とせかす声にも応えられず、私は呆然とその場に立ちつくした。
このマンション、そこそこの値段がするのだから防音はしっかりしていると思っていたのに…。まだ季節は肌寒かったから窓だって開け放してなかったのに…。

毎日の我が家の光景が浮かぶ。ワンオペで疲れてイラつき、春陽のワガママや癇癪を怒鳴り声で牽制する私。大声を出すと、何も解決しているわけではないのに心がスッとするのだった。
「春陽、ダメっ!」
「春陽!いい加減にして!」
「そんなに言うこと聞かないなら春陽なんていらない!出てって!」
「ママだって泣きたいんだから!春陽のせいだよ!バカっ!」
「春陽!」「春陽!」「春陽!」…

あれが、あの情けない私の子育てともつかない子育ての音声が、全部聞こえてたんだ…。途端に私は羞恥と後悔に包まれた。佐々木さんは、毎日響き渡る私の声をどんな気持ちで聞いていたのだろう。さっき春陽の名前を出したのは、ただ何の気なしに言ってしまっただけなのだろうか。いや、彼女のような仕事のできそうな女性が何の気なしにうっかり、なんてありえない気がした。あれはきっと「聞こえていますよ」「うるさいですよ」という牽制の意味を込めたメッセージだったのだろう。3ヶ月も聞かせていた、3ヶ月も聞かれていた…次に佐々木さんに会ったら私はうまく笑って挨拶できるだろうか。

…というような話の佐々木さん側になってみたいと思いながら、私は今日もマンションの部屋で耳を澄ましている。聞こえてくるのは遠くの線路を電車が走る音と、飛行機が飛び去っていく音ばかり。空は青くて、マンションはどこまでも平和だった。


《了》

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