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第45回 村長散歩日記【日常散歩編】 240409(ときどき配信)

 (島田啓介マインドフルネス・ビレッジ村長による村長日記です♪)
*村長日記、1か月以上空いてしまいました。この間、いちばん大きかったのはプラムヴィレッジの来日ツアーの世話役・スタッフ、会長を務める自治会の総会、理事をしている里山活動や総会、それらの年度末のまとめ作業、出版が迫る翻訳書の作業など。
 承知で引き受けたものの、一時は果たしてこなせるかどうか真剣に悩みました。しかし悩みは悩み、そうしていても現実は進みません。今回もまた、もっとも助けになったのは「土壇場のマインドフルネス」でした。それについては改めて書くことにします。
 セルフケアも大切なので、しばらく毎週アップをお休みして「ときどき配信」にさせていただきます。最近隠し事、いや〈書く仕事〉が増えているので。誤変換っておもしろいですね。でもどちらも言えてるかも。
 
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【第45回:全存在で受け止めること】
 
*早朝部屋で坐っていると、鳥の声と全身が一致する瞬間がやってくる。 
最初は耳で聞いて脳で認知している感覚があり、それは日常的な体験だ。いや、日常ではそうして聴覚だけに集中しているわけではない。瞑想がおもしろいのは、非日常的なセッティングの中で、じつはもっとも自然な状態を体験しなおすところだ。思い込みがはずれたときに、本然が姿を表す。
 耳で聞いていることにさえ、教科書的な思い込みがあるのかもしれない。私たちは受容器を通して外界と接触するが、それは一種の現実的な方便で、本質は違ったところにあるのではないかと瞑想していると思う。
 耳(聴覚)はあくまで手段である。手段がなければ体験は成り立たないが、手段だけでは本質が失われる。それは「鳥の声を全身で聴く」ということだ。全身で聴かなければ鳥の声は聴けない。日常ではどうかと言えば、私たちは聴いていない。何となく振動が通り過ぎていっているだけだ。
 音について、3月のプラムヴィレッジの来日ツアーで貴重な体験があった。ぼくは広島で中心的にかかわり、鎌倉や東京でも手伝ったのだが、とりわけ広島は、ティク・ナット・ハン師の長年の思いを引き継いで、ぜひとも成功させたい一心で準備にかかり、現地で働いた。

写真は島田啓介さんによる提供です♩


 振り返っても無理な企画をたくさん盛り込んだと思う。思いが過ぎると現実が伴わない感は否めない。それでも数々の縁と援助に恵まれて、ぼくたちスタッフとプラムヴィレッジの僧旅団は広島入りを果たした。滞在先はカトリックの修道院である。何もかもが特別なセッティングだ。
 今回のツアーではギタリストがいなかった。ぼくはオーガナイズで手いっぱいだったのだが、頼まれれば断れない。ほかにいないからだ。そこでツアーのおおかたの伴奏担当を兼ねてすることになった。
多くの人は、ぼくがそれほどギターを弾くとは思っていなかったようだ。毎年の来日ツアーで通訳や世話役や司会をしてきたものの、そこまでするのは負担と感じた。以前引き受けすぎてツアー中に倒れ、車いすで通訳した苦い経験もある。
迷ったけれど引き受け、それ以来どんな演奏もした(ほかにいないから仕方がない)。歌の伴奏、ヴァイオリンとの合奏、そして僧侶団による「アバロキテシュヴァラ(観世音菩薩)」のチャンティング(詠唱)の演奏担当である。ところがこれがとんでもない難関だった。
コード(和音)が五つほどの簡単な進行である。はっきり言って舐めていた。ところが本番2日ほど前の音合わせで、まったく合わないので焦った。テンポが合わない、なんというか他の人たちの流れに入っていけないのである。
オーガナイズで飛び回り、心がまったく落ち着いていなかったからだろう。ゆったりとした悠久の時間を感じさせる詠唱は、日常とは別次元にあった。それは失敗しないように、気をつけて、というぼくの「個人的な思い」とはまったく違った流れなのだ。
ぼくは耳で聴き、指で演奏しようとしていた。それが一般的な音楽の考えかただ。受容器と運動器とのコーディネートが問題で、意識の焦点もそこにある。しかし一般的に言っても、それだけの演奏に面白みがあるとはとても言えない。
この場合、たんなる演奏ではなく、ほかならぬ広島の原爆ドーム前で行われる祈りの歌なのだ。ぼくはまた、そういった重大性の思いにも押しつぶされそうだった。かたや会場のこと、司会や進行の段取りや、スタッフ間のやりとりなどすべきことが怒涛のように押し寄せてくる。
ぼくは呼吸した。そして改めて過去の映像で、「アバロキテシュヴァラ(観世音菩薩)」のチャンティングのギタリストに注目した。とくにその指に。指がその人のものではなく、まるで観世音菩薩のものであるかのように、滑らかに滞りなく動いていた。この人は個人ではなく、観音として演奏しているのだ。
 


 個人ではない、河なのだと、そのとき思い出したのである。新たな考えとしてではなく、ぼくたちはもともと河だったのだ。そのとき分離はなく、すべては一体である。鳥の声を全身で聴くときのように。そのときすべては「流れるべくして流れ」てゆく。心配はいらない。
そうして本番は何事もなく感動的な展開となったのだが、じつは背後で、そのほかにも多くの危機的な状況が起こっていたことは察知できないだろう。それほど奇跡的な同期が起こり、可能になった広島の三日間だった。同じことは二度とできないだろうし、するなら一年ほど前からの周到な準備が必要だろう。観世音菩薩のご加護ばかりを頼るわけにはいかない。
そのときの映像は、こちらからいつでも見ることができる(後日編集の上、歩く瞑想の部分も含まれる予定だ)
 
【歩く瞑想と祈り〜チャンティング「Namo Avalokitesvara(南無観世音菩薩)」】
https://www.youtube.com/watch?v=JnoMEadAfyE
 
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https://peatix.com/event/3912744

 
 
*毎月のスケジュールはこちら(ときおり変更もあるので、必ず以下から確認してください)
https://mindfulness-village.mystrikingly.com/schedule
     


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