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分かりやすい授業と簡単な授業とは違う

教師の指導力を測定する指標の一つに「分かりやすさ」があります。全国学力・学習状況調査でも、児童生徒のアンケート調査で「〇〇の授業の内容はよく分かる」という項目を設定しており、岩手県教育委員会でも教育政策の一つの指標として、この授業の分かりやすさを掲げています。

授業の「分かりやすさ」はとても重要です。分かりにくい授業は児童生徒の学ぶ意欲を低下させるだけでなく、児童生徒の満足度や幸福度にも繋がってくるからです。
私自身、中学校で理科を教えていた頃は、兎に角、分かりやすさを第一に考えて指導してきました。生徒の学力水準に合わせてプリントを自作したり、板書で図やイラストをたくさん使ったりと工夫しながら授業を進めることで、それなりに分かりやすい授業はできていたと自己評価をしていましたし、生徒アンケートからも手応えは感じていました。

けれど、県教育委員会に出向して、様々な先生の話を聞いたり、調査データを分析していく中で、単に分かりやすい授業だけを追求していくのでは不十分であることに気付かされました。
分かりやすい授業の中には、単に授業内容のハードル(難易度)を下げただけだったり、教科書を児童生徒が読んで理解するのではなく教師が手取り足取り解説するだけのケースも少なからずあるようです。
それは、ベテランの指導主事の「分かりやすい授業と簡単な授業とは違う」という言葉に凝縮されていました。

これを聞いて、私自身も教師だった頃、全てとは言わないまでも混同していた部分があったと反省されられました。
コロナ禍での臨時休校で浮き彫りになったのは、教科書を見ながら自分で勉強できる力を児童生徒が身につけているかどうかで、学びの保障は大きく変わっていくことです。長野県教育委員会は、ウィズコロナに必要な力として「自律して学ぶ力」を掲げていますが、これはハードルを下げたり、教師が手取り足取りするだけの簡単な授業では身に付かない力だと思います。
児童生徒の頭をフル回転させるような深い問いの投げ掛けや課題の設定、自分で教科書を読み解きながら、分からないところを教師やクラスメートに質問できるような環境づくりなど、簡単ではないけれど生徒が分かろうとする授業づくりが求められるのだと理解しました。

これはきっと学校だけに限らないのだと思います。スマートフォンの操作一つとっても分かるように世の中は便利で分かりやすい方向に動いています。各種手続きなども簡素化される傾向にあります。
そのこと自体は歓迎すべきことなのですが、一方で、人工知能が台頭する時代においては読解力などの基礎的学力の必要性がより一層重視され、社会課題の解決には複雑に絡み合った事象を読み解いていくことが要求されます。
このため、大学入学共通テストでも高い読解力や複雑な情報処理能力を要する問題が出題される傾向にある中で、「簡単・簡潔」と「複雑・困難」といった相反する価値観・手法の両方を教育に取り入れていくバランス感覚が求められているのだと思います。
例えば、簡単な暗記問題などはオンラインドリルを活用しながら、個人の理解度に合わせた課題設定をしたり、写真や動画を活用した分かりやすく説明しながらも、児童生徒の思考を刺激するような問いを考えて深い学びへと誘うような授業展開です。

それに応えていく教師の専門性には頭が下がります。
ただ、教育がこれまで大切にしてきた「魚を獲って与えるのではなく、魚の獲り方を教える」という本質的な部分は何も変わらないのだと思いますので、むしろ原点に立ち返って、削ぎ落とすべきところは削ぎ落としながら、学校現場の先生方には取り組んでもらいたいと願っています。

(長野県教育委員会HPより「長野県の児童生徒が目指す学びの姿」)

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