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始まりの音。

僕は鬱と診断された。原因は,その症状の別名でもある「環境適応障害」。異動した職場(学校)にうまく適応できなかったんだ。

自覚はあった。前の学校ではある程度の成果を挙げ,それなりに自信もついていた。だから,前評判の悪い学校でもやっていけるだろう,と。

でも違った。これまでの自分は通用しない。日に日に焦りと不安が全身を蝕んでいく。「新たな自分に成らなくてはいけない」と,“らしくないこと”をすることを余儀なくされた。いや,今思えば自分で勝手に“そう”していた。自分が「信念」としていたことさえ曲げ,NGとしていたアプローチをあえて目の前の子どもたちにぶちかまし始めた。自分が嫌っていた「教師」を演じていたんだ。

結果,擦り減った心は小さくなって,居場所を見つけられない校舎(職場)の片隅で泣いていた。

その心はある日の朝限界を迎え,僕の体に“異変”を起こさせた。「もうあそこへは行くな」と半ば強引に、それでいて優しく告げた。教師として,ひとりの男として,人生で初めて何かが折れた“音”がした。

今思えば,あの日聞いた“音”は,「始まりの鐘の音」だったのかもしれない。休職してから復帰するまでの間,嫌でもかと言うくらい自分を見つめ直した。その中で特に感じたことは,自分は「言葉」が好きということ。そしてその頃,多くの本や世界に散らばる“言葉たち”に救われ,心が元の形を取り戻していくことを実感できる自分がいた。だから,改めて「言葉の力」を信じることにしたんだ。どうやら人は,口にした言葉や選んだ言葉の方向へ引っ張られるらしい。良くも悪くもね。

それから今日まで,僕は「僕が選んだ言葉」を何らかの形で発信し続けている。その言葉は,自分の背中を押すものでもあり,おこがましくも誰かの背中も押せたらといいなとさえ思っている。もちろんそれは,受け手に委ねられた領域だけど。

そして,かなり話は飛躍するけど、,今一番僕を突き動かしているものは、「公教育をよりよくする」ということ。以前から公立小学校の教師でありながら教育現場に抱いていた“違和感”の理由と原因と切り口が鮮明になってきた。休職中に復活した「読書欲」と「学ぶことの楽しさの再発見」のおかげかな。

奇しくも,あの日僕を“潰した”教育現場を,今度は“叩き直そう”としている自分がいる。それは、我が子を含め,これからの時代を担う子どもたちの未来の為であり、あの日の僕と同じ思いをする教師がいなくなる未来を迎える為。

正直,突破口の光はまだ僅かしか見えないし方角が合っているかも分からない。でも,「走り始めなきゃ景色が変わらない」ことと,「勝算なく走り始めちゃいけない理由なんてこの世にひとつもない」ことを,“一度芯が折れた経験のある”今の僕なら知っている。

「挫折」を「始まり」と解釈するのも言葉。

ひとを笑顔にするも泣かすも言葉。

君なら
どんな言葉を纏い,
どんな明日に向かうかな。

𝚙𝚑𝚘𝚝𝚘 𝚋𝚢 𝙺𝚄𝚁𝙾’
𝚜𝚘𝚗𝚢 α𝟼𝟺𝟶𝟶/𝙴 𝟻𝟻-𝟸𝟷𝟶𝚖𝚖 𝙵𝟺.𝟻-𝟼.𝟹

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