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ブラック校則は是か非か(私見)

少し前からYahoo!ニュースなどで「ブラック校則」という言葉を見かけるようになりました。

私のぶっ飛んだ母校(過去記事をご覧ください)は、校則と言える校則はありませんでした。私服で髪型も自由。担任に生活指導に関して言われたのは「法律には違反するな(タバコとかお酒とか)」のみ。
それでも成り立っていたのは、ある程度の進学校だったという理由は大きいです。
ただ、私服だからか校内での盗難が多かったのと(犯人は侵入者と思われる)、担任が注意しないので一応存在した掃除当番をやる生徒がほとんどいないという欠点はありましたが・・・。

さて、教師として勤めた学校の中にはそんな自由な校風の学校は一つも無く、ジャンル分けすると「生活指導が成立しないほど崩れた底辺校」「生活指導を厳しくして規律をギリギリ保ってる底辺校」「表面的な生活指導だけしてる中堅校」がありました。(進学校には行ったことがない。)

私自身は生徒を不必要に縛る指導は好きではありません。かと言って、秩序が乱れた状態も恐ろしいものです。
そのため、必要悪であると思いながら指導する場面もあります。学校の方針として確固たるものがある場合は、自分の考え方とは違うのになと思いながら指導することもあります。
若いころは、大声をあげて生徒を叱ってしまったこともありました(黒歴史)。
ある程度歳を取り貫禄がついて、声を荒げなくても指導できるようになってきたのはようやく最近のことです。
それらの経験を通して、私は校則(生活指導)に対しては次のような考えを持つに至りました。

  • 厳しい指導によって、不満を持つ生徒と守られる生徒がいる。

  • どんな学校でも教師間の意志が統一されていないと、指導は不可能。

  • なぜそれが必要なのかを説明できない指導は、無意味。

順に解説していきたいと思います。

厳しい指導によって、不満を持つ生徒と守られる生徒がいる。

厳しい指導に対してその理不尽さを訴えたり、わざとその指導に従わない生徒を何人も見てきました。そのため、厳しくしつける校則は本当に必要なのか、という疑問は常に抱いています。
しかし「生活指導を厳しくして規律をギリギリ保ってる底辺校」に勤めはじめたばかりの頃、女子生徒から「この学校は校則が厳しいからいい」と言われました。まさに目から鱗…そんな考えの生徒がいるとは思っていなかったので驚きました。

その生徒曰く、巷によくいる短いスカートにカーディガンを羽織っているような女子高生の服装が大嫌いなんだとか。
指導が緩めの学校に行くと、そういう服装をしないと浮いてしまいそうで嫌だった、だから厳しい指導できちんと制服を着ているこの学校が良いのだと・・・。

それに加え、厳しくしているからこそ、いじめ問題も少なく(0とは言わない)、非常に落ち着いているというのは否めない事実でした。
その雰囲気がありがたいと思っている生徒も、言わないだけで確実にいるだろうとも思いました。

校則が厳しい学校は一般的に、保護者受けが良く(きちんと指導してもらえる)、生徒受けは良くない(うるさく言われて嫌だ)という傾向がありますが、厳しくすることで喜んでいる生徒もいるということに、その時初めて気付かされました。

学校は教育の場です。そしてその教育活動のメインは授業です。
「高校は義務教育ではないので生徒は全員勉強したいから入学しているのだ」とはもちろん考えていませんが、それでも授業は最低限保障すべきものだと思います。
「生活指導が成立しないほど崩れた底辺校」では、この最低限の保障すら危ういものでした。詳細は省きますが、授業中に犯罪行為が行われ現行犯逮捕されたこともありました。退学者や長欠者が突然やってきて校内をふらふらするので、授業の邪魔をしないように制止することもありました。

それに比べれば、「生活指導を厳しくして規律をギリギリ保ってる底辺校」では、落ち着いた授業時間はある程度担保されていました。
学校が学校である最低限のアイデンティティを保つためには、(特に底辺校では)厳しい校則が有機的に機能することがあります。
かといって、一方的にその指導を押し付け続けることには、常に疑問を感じています。(そのあたりはまた後で触れます。)

どんな学校でも教師間の意志が統一されていないと、指導は不可能。

指導レベルの軽重こそあれ、学校として譲れない一線というのはどの学校にも存在します。
その線引きが教師間で統一されなくなると、途端に指導は不可能になります。
分かりやすいものでは「○○先生は何も言わなかった」「○○先生はいいって言ってた」など。

公立高校は、毎年3~4月に一定数職員の異動があるため、この基準を保っていくのは非常に難しいです。
強い力で舵取りをする先生がいる間はある程度維持されていくのですが、その先生もいつかは異動、そして世間の情勢や生徒・保護者の質も年々変化している中で、よほど確固たるものが無いと、指導内容はぶれにぶれていきます。

特に底辺校では、このズレが即学校崩壊につながります。そうしないために、必ず複数で指導に当たる、困ったときは必ず生活指導担当に確認する、ことになっているのではないでしょうか。
しかし、人手不足の中で複数で指導できないことの方が多いので、生活指導は薄氷を踏むようにおこなわれているのが多くの学校の実情です。

この内容は、次の項目にもつながります。

なぜそれが必要なのかを説明できない指導は、無意味。

学校によって事情は異なりますし、どのような指導基準があっても良いのですが、「なぜその指導が必要なのか」の根拠がない指導は響かないものです。
例えば「無断遅刻は奉仕活動(という名の掃除)」をさせている学校を複数知っていますが、そもそもなぜ「無断遅刻」がいけないことなのか、を考えながら指導に当たっているでしょうか。
学校の決まりだからと、特に理由も考えず指導だけしていないでしょうか。

私もかつては理由など考えることもなく一方的な指導をした結果、生徒に愛想をつかされ、信頼関係を築けなかったことがあり、強く反省しました。
その数年後、無断遅刻した生徒を指導するときに「なんでわざわざ呼び出して話してるか分かる?連絡が無くて遅れてくると心配だからだよ。事故に巻き込まれてるかもしれない、何かがあって連絡できない状態にあるのかもしれない、その可能性が少しでもあるなら、心配をするのが担任だよ。」と。
その後、その生徒は無断遅刻をすることは無くなり、何かにつけて(私が担任ではなくなっても)声をかけてくれるようになりました。
進路が決まった時も真っ先に報告に来てくれました。「先生、私が進路決まらないんじゃないかって心配してたでしょ?」と言いながら(笑)

その学校で受け継がれてきている指導は、本来何らかの意味があったはずなのです。しかし年月を経るごとに、その意味が薄まって指導だけが残っているのです。
毎年、なぜ本校はこのような指導をしているのか、という校内研修を年度当初にやった方が良いと思うのですが、そのようなことが実施されている学校は皆無・・・。

なぜその指導が行われているかに明確な意味を見出せない場合、私は指導をすることに苦しさを感じてしまい、指導を躊躇してしまうこともあります…(ここだけの話)。

おわりに

ここまで読んでくださった方はお分かりだと思いますが、学校に生活指導は必要なものです。
しかし、ブラック校則と呼ばれる中には、本当に無意味な下着の色指定とか、地毛を染めさせるとか、授業中は水筒を飲んではいけないとか、時代に合わないどころか、生命の危機すら招きかねないものもあります。
そのため一般に言われている「ブラック校則」には明確に「否」の意志を示します。

全生徒が納得している校則だけが存在することが理想かもしれませんが、まだ判断のおぼつかない生徒に決めさせても、適切な校則が制定されることはないでしょう。
でも少なくとも、指導している全教員が納得している校則だけが存在することにしていただきたいと強く思います。

生活指導のさじ加減一つで、生徒と教員の信頼関係を崩すことも築くこともできます。指導力を磨くことは、教員にとっては非常に大切なスキルなのに、実践的にそれを磨くのは、自分の経験以外にありません。

だからこそ、初任者が即担任になっている学校・校種・自治体は今すぐ見直すべきです。スタートは副担任から。まずは1年間いろいろな先生のスキルを盗んで、自分のものにし、自信を持って担任生活を歩んでいただきたいです。