ルーツ探しの旅|旅行記
旅が好きだ。日本を含めた世界中を旅している。
思い出深い旅はいくつかあるけれど、忘れられない旅といえば、自分のルーツにまつわるものだ。
きっかけ
都会の核家族で育った私にとって、祖父母より上の代は歴史上の人物というか赤の他人というか、あえて乱暴に表現するなら「存在すら認識していない人たち」であった。曾祖父母の名前もつい最近まで知らなかった。
それで特に困ったこともなかったのだが、あるときふと思ったのだ。
私はどこから来たのだろうか、と。
いい歳して自分探しかよ。
すかさずセルフツッコミ。読者のあなたより早かっただろう。はは、自分じゃなくてパートナーを探せ、末代になるぞってね。
余談だが、私は一人旅が好きだ。でも、「自分探しの旅ですか!いいですね!」と言われるとうんざりする。旅先で自分が見つかったらそいつは幻かドッペルゲンガーだろう。私の旅はいつだって現実逃避のためだ。
話を戻そう。
身内の葬儀をきっかけに戸籍に興味を持ち、調べていくうちに、自分のルーツが日本各地に散らばっていることが分かった。いや、話としては親や親戚から多少聞いていたが、戸籍に載った名前や本籍を丹念に見ていると、「本当に、こういう名前の人たちが、こんな場所にいたんだ」とじわじわと実感が湧いてくるから面白い。
本籍と実際の住所が異なることはままあるが(例えば、夏目漱石は徴兵逃れのために北海道に本籍を移したという説がある)、江戸時代まで遡ることができれば、本籍と実際に住んでいたところを同一と見なして良いだろう。
日本各地の役所に戸籍謄本を請求していた頃、常々行きたいと思っていた「大地の芸術祭」が開催されていた。会場は母方のルーツである新潟県。
身内の死から立ち直れていない私は、ゆるゆると旅支度をした。
私の旅は、いつだって現実逃避のためだ。
曾祖父・清一(仮)
私の母方の祖母の父親に当たる人を、仮に清一としよう。このエッセイの中心となる人物である。
明治30年代の新潟県生まれ。戸籍に父の記載はない。民法旧規定でいう私生子である。
同じ家には父親違いの弟たちがいた。彼は母親にとって最初の子どもだが、戸籍上は長男ではなかった(長男、次男……と書くべき欄には「男」とだけ書かれている)。当然、家督を継いだのは弟だ。
清一は肩身が狭かったのだろうか。正確な年代は不明だが、あるとき働き口を探すために上京。結婚して祖母を含む四人の子をもうけたが、後に家を出て他の女性と一緒に商売を始めた。
お妾さんか、単なる仕事上のパートナーか。いずれにしても、清一は妻と幼い子どもを残して去ってしまった。それも、戦争で国民全体の生活が苦しくなっている頃に。
「そのせいで、私たちは戦中戦後に余計な苦労をした」と祖母は語る。
(と言いつつ、祖母はたまにそのお店にこっそり行って白米を食べさせてもらったらしい。たくましい子だ。)
祖母は小学校時代の疎開の話や青春時代の話はしてくれるが、清一の話はほとんどしない。覚えていないのか、話したくないのか。私には分からない。
一方、母は「そうは言っても、私のおじいちゃん。どんな人かもっと知りたかった」と言う。
祖母の言い分も、母の気持ちも分かる。
当事者より世代の下った私が「分かる」なんて言うのはおこがましいのだが、それでも思わず祖母や母に同情したくなってしまうのは、それまで名前すら知らなかった清一が私の中に実体を持って立ち現れ始めているからか。
知り合い同士のいざこざに巻き込まれたときの、あの微妙な気持ちは、「歴史上の人物」と書いて「赤の他人」と読む人たちに対しては決して抱くことはない。
ちなみに、祖母は清一の出自について知らなかったらしい。
調査の結果を伝えたところ、清一が私生子であることがとても気になったようで、私の結婚に差し障りがあったらどうしよう、と言い出した。母と私で二人して「彼氏すらいないんだから」となだめたが、彼も何世代も下ってから結婚云々の話題に引っ張り出されるとは思わなかっただろう。草葉の陰で苦笑いしているに違いない。
まさに、知らぬが仏、言わぬが花。
いざ、本籍地へ
コロナ禍真っただ中の2022年秋、私は新潟県某所にある清一の本籍地を訪ねた。
Google mapによると新幹線の最寄り駅から約9km。もう少し近い鉄道駅もあったが、スケジュールの都合で利用が難しい。1週間分の荷物を背負って歩いて2時間程の距離。往復4時間ちょっと。まあ行けるだろう。
駅前にバスターミナルなぞなかった。タクシー?ここは観光地じゃないんだよ。必要なら予め手配しておくんだな……。
信濃川を眺めながらひたすら歩く。奥にそびえる山脈。手前の河川敷に果樹園、セイタカアワダチソウ、その他知らない植物。黄金色の稲穂はほぼ収穫されていた。のどかで、昔から変わらない風景のように思われた。
祖母は幼い頃(小学校に上がる前だと言っていたから太平洋戦争末期だと思われる)清一に連れられて新潟の実家に行ったことがあった。
「今考えれば食つなぐためだったのだろうけど、当時はそんなことは分からなかったわ」
食い詰めたとはいえ、私生子の立場では行きづらかったのだろうか。清一は幼い娘を連れて行った。
当時の自動車は庶民のものではなかったから、鉄道駅からは徒歩だ。道はアスファルトで舗装されていただろうか。あるいは、土か砂利道か。あぜ道もあっただろう。とにかく歩き通した。祖母は訳の分からないまま、小さい足でテクテクと。この信濃川沿いの道を。
時代は下り、今や自動車の天下で、自転車はおろか歩行者などほとんどいなかった。たまに人間がいる!と思ってよく見ると農作業中だったり休憩中だったり。もはやここでは道は歩くものではない。
これも時代の流れか……と、感慨に耽りながら約3時間。疲労が溜まっていたせいか歩みが遅れていた。単純計算で1時間あたり3kmしか進んでいない。ずうっと平坦な道だったのに。
しかし、とにもかくにもようやく目指す字までたどり着いた。
スマートフォンの充電もGPSもバッチリ。電柱に書かれた番地を一つ一つ指差し確認して、Google mapと見比べながら、ここだ、という場所を特定した。
垣根でよく見えないが、女性の話し声が聞こえる。
私はいかにもこの先に用があります、というように歩き、その家を通り過ぎるときにさりげなく表札を確かめた。
ドンピシャ。
ついに見つけた。私の曾祖父、清一の育った土地を。
人見知りが頑張るとき
清一の実家が分かった。今回の旅の目的は達成した。
帰りの新幹線のことを考えると、のんびりしている時間はない。が、名残惜しくてぐずぐずとその場に留まった。
今住んでいる方は子孫の方だろうか。つまり、清一の異父弟の子孫で、名前も知らない私の親戚。それとも、偶然同じ苗字の方が住んでいるだけか……。
母に電話をかけた。
「せっかくだから話してみたい」という気持ちと、
「人見知り発動!無理!緊張!」という気持ちと、
「ここまで来てチャレンジもせず帰れるか」という気持ちの三つ巴。
いや、三分の二でチャレンジに傾いているが、あと一歩、背中を押してほしかった。
それに、母方の親戚だ。母の了承を得ないで突っ込んだ挙句トラブルにでもなったらまずい、という逃げ腰的な判断も多分にあった。
母は電話にすぐ出た。「行ってみたら」と言ってくれた。
私は腹を括ると、マスクの下で精一杯の愛想のよい笑みを浮かべた。
玄関の前で、5, 60代くらいの女性が二人でおしゃべりしていた。
怪訝な表情を浮かべる相手に、清一とその妻、そして祖母の名を挙げてその子孫だと名乗る。
「ええと……お父さんに聞いてきます」と一人は家に入り、もう一人は「じゃあ、また」と言って帰っていった。うーん、これはご近所の噂話になるぞ。
じきにお父さん――旦那が出てきた。私の曾祖父の父親違いの弟の孫。大叔父、で良いのだろうか。仮に旦那、としておこう。
「あんた、○○さんのところの子かね」
とっさに○○さん、つまり祖母の兄の名前が出てこず、トンチンカンな返事をしてしまったが、しどろもどろになりながらも説明して無事に親戚だと信じてもらえた。
せっかくだから、と家に上がらせてもらった。
新幹線の駅から3時間かけて歩いてきた、と言うと、驚き呆れられた。「大変だったでしょう」と、すぐに飲み物とカットした梨を出してくれた。自分の畑で採れたものだという。
品種は南水、甘い果汁たっぷりで疲れた体に染みる美味しさ。ついつい手が伸びてあっという間に食べてしまった。
ところで、農家の秋は収穫で忙しい季節。ちょうど稲刈りが終わって梨の収穫が始まる前の、束の間の休みだったらしい。なんという奇跡的なタイミング。偶然か、はたまた清一のお導きか。
清一をめぐる話
人心地ついたところで、持ってきた戸籍謄本を見せながら改めて自己紹介した。
旦那は、奥さん曰く「清一の写真と雰囲気が似ている」。ただ、肝心の写真は探してくださったものの見つからなかった。残念。
それから、一族の話をいろいろ聞かせてもらった。
代々続く農家で、本家筋までたどれば江戸時代まで遡れること。
また、ある年、酷い大雪で作物がダメになってしまい、(それが直接のきっかけとなったかは定かではないが)その前後に清一が上京したこと。
東京で成功した後、帰省して近所の檀那寺に立派な墓を建てたこと。清一の母の墓だ。質の良い石を使っており、最近磨いて綺麗にしたらしい。
清一は、故郷に錦を飾っていたのだ。
残念ながらその寺には行けなかったが、清一の確かな足跡が残っているのだ。墓石と、子孫の心に。私にはそれで充分だった。
ところで、清一の実父は隣町の人だったらしい。苗字も名前も不明。清一の母と籍を入れなかった理由も分からない。私の高祖父は、どんな人だったのだろう。興味は尽きないが、ここで迷宮入りだ。
名もなき道
初対面だったが話が弾み、あっという間に時間が経ってしまった。
さあ歩いて帰るぞ!と、こっそり気合を入れていると、ご厚意で駅まで送ってくださることになった。ありがたや。
私が苦労して歩いた道のりは15分程で済んでしまった。車窓から見る景色は行きとほとんど同じで、やはり人は歩いていなかった。
なお、この道に関してはオチがある。
私がセンチメンタルな気分で歩いた道は清一も祖母も歩いていない。というのは、上越新幹線が開通したのが昭和57年、戦後のことだからだ。清一たちは国鉄時代の在来線でどこかしらの駅まで乗ったのだろう。
時系列に並べるのは歴史の基本だ。
迂闊にも旦那に指摘されるまで気がつかなかった。
……つまり、私は何の所縁もない道をひたすら歩き続けたのである。1週間分の荷物を背負って、3時間もかけて。清一が知ったら笑うだろうか、呆れるだろうか。
歴史は意外と近くに
私はどこから来たのか。
今回、その一端に触れた。
存在すら知らなかった祖先の名前を知った。
自分の中で歴史上の人物扱いだった先祖たちが、日々の生活を送っていく中で時代に振り回されてきた痕跡を見た。
日本史的には名もなき庶民だった先祖が実際に生きていたことを、資料で、言葉で、風景で、面影で、知った。
本当の意味で、歴史というものを体感したのは初めてかもしれない。
○
最近は友達が結婚したり子育てを始めたりして、徐々に距離ができつつある。もちろん喜ばしいことで、皆の幸せを見聞きするのは嬉しい。
ただ、身内の死と相まってか、いつかはひとりぼっちになるんだという、今までにない寂しさを感じ始めるようになった。
でも、こうしてバトンを繋いできた先祖たちがいて、日本のどこかに一族の人がいるかと思うと、それだけで少し救われる気がする。
これでこの話はおしまい。
手探りの調査だったが、新たに判明したことがたくさんあった。
何より、遠路はるばる見知らぬ親戚を訪ねたことは、この先ずっと忘れないだろう。
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