藤井風「満ちてゆく」のMVについて、考えてみた
先日公開された藤井風さん(以下、敬称略)の最新であり、彼にとって初のラブソングでもある「満ちてゆく」。
それは「喪失と再生」の物語。
最初にMVを見たときは、老人となった「晩年の藤井風」が「最愛の人」との思い出をノートに書き記しながら、その生きた証を回想していくかたちでストーリーが展開していき、命が燃え尽き、そして心尽きたところで「愛の記憶」が閉じられるのかな、と思っていました。
しかし、何度か見ているうちに、その解釈にさまざまな矛盾や違和感(女性と子供の関係性だったり、さまざまな時系列等々)を感じたので、自分なりの考察でその違和感と向き合ってみました。
今回のMVは、シンプルに見えて実はシンプルでない、というより、シンプルなテーマを「言葉」ではなく、きちんと「映像」で描き切った、とても誠実かつお洒落、そして随所に過去のMVをオマージュした、何度見てもその世界観を堪能できる極上の短編映画に仕上がっているのではないでしょうか。
今回の「満ちてゆく」MV、私はこんな風に考察してみました───
MVでは5人の藤井風が登場します。
最晩年の「車椅子に乗った藤井風」、悲嘆に暮れる「老年の藤井風」、血気盛んな「青年の藤井風」、「少年の藤井風」、そしてすべてを手放し解放されたのちの「今の藤井風」。
まず冒頭に登場する「車椅子の藤井風」、これは実在の藤井風ではなくその心、つまり「執着に囚われ老いていく、藤井風の心」を擬人化したもの。
雪の中、「車椅子の藤井風」がたった一人、ゆく姿。それは「青年の藤井風」の心に募る、悲しみと絶望の雪、そして真冬のように凍えるその心象風景を表しているのではないでしょうか。その行く先である「死」へと「逝く」姿なのかなと思いました。
その次に「老年の藤井風」が登場します。彼がいるのはおそらくグリーフケアでしょう。
大切な人を失った人たちが集い、その悲しみや絶望をそれぞれが吐き出し、そしてその痛みを共有することで、それぞれの持つ「痛み」や「悲しみ」を癒す。それがグリーフケアという活動です。
電車の向こうにいる、失ったあの人のことを思い浮かべながら、「老年の藤井風」は彼女との「あの頃」を思い出します。もし彼女を失っていなかったら、自分と同じように歳を重ねていたに違いない。そしてピアノを奏でる彼のそばには、ロマンスグレーの彼女がいたはず、そんな「あり得たかもしれない未来」を思うのです。
でも、彼女はもういない。
その深い悲しみを「車椅子の藤井風」がノートに綴る。たった一人の部屋、凍える真冬の部屋の中で、彼女のいない喪失感に囚われながら。
どんなに手を伸ばしたって、彼女はもう、その先にはいないのです。
「車椅子の藤井風」がその執着に囚われ続ける寂しい姿は、まるでたった一人、大海へ放り出され、漂流しているかのよう。後悔や悲しみに押しつぶされて、ただただ「音も色もない海」を漂っている。そんな心の有り様。
なぜこんなことになってしまったのだろう。「青年の藤井風」によって、その理由が明らかになっていきます。
「青年の藤井風」がスキップしながら街を闊歩するその姿に、こんな歌詞が重なります。
これは例えば、地位とか名誉とかお金とか、そういった物質的なものに目がくらみ、そうしたわかりやすいものに惹かれてしまう「青年の藤井風」の心の貧しさを表したもの。
そうしたものに溺れる日々のなか、愛する人が自分の前から突然いなくなってしまいます。そこで彼は初めて気づくのです。
本当に大切ものは何か?
自分にとってかけがえのないものが何だったのかを。
そんな愚かな自分が腹立たしく、そして情けなく、「青年の藤井風」は夜な夜な街の酒場で酒をあおり、ときに荒れ狂う。
ボロボロな状態で地下鉄に乗っている彼は、その車内で自分が失ってしまった「彼女」の幻影を見ます。思わず彼は、その姿を追いかけ、そして手を伸ばしますが、しかし───
彼女はもういない。
いるはずがない。
もう、どこにもいないのです。
何でもっと大切にしなかったんだろう、何でそんな簡単なことがわからなかったんだろう。自分にとって「本当に大切なもの」それを失ってから気づくなんて。
彼女の幻影を追いかけるままに、「青年の藤井風」は地下鉄を降り、そして街へ───
その街角でふと、彼はその足を止めます。そこはあの日のピアノ店。彼女と訪れた、思い出のあの場所。
一人、お店に入り、そしてピアノに触れる。
彼は彼女が奏でるピアノが好きだった。その彼女に聴かせたくて、彼もまたピアノを弾くようになった。気づけば彼女もまた、彼が奏でるビアノを好きになっていました。
彼女がよく弾いていた曲を、あの日のピアノで彼が弾く。どこかで彼女は聴いていてくれているだろうか。
あの日、あの時、そしてあの頃。
あまりに未熟で、何もわかっていなかった「少年の藤井風」。彼女はそんな子供だった彼を常に慈しみ、そして愛してくれた。なのに・・・
彼女を失った悲しみと後悔にただただ囚われ続け、手放せなくなってしまっていた、悲しく空しいその執着に、「青年の藤井風」は改めて気づき、決意します。
その想いを「手放そう」と。
そして彼のために、ずっと自分の思い出の中に留まり続けていた彼女を手放し、彼女のその心を解き放ってあげよう、と。
そこに「少年の藤井風」はもういません。彼はもう子供ではないのです。「青年の藤井風」は街を疾走し、教会へ行き着きます。
そして、彼女へのその想いすべてを、ここへ置いていく覚悟を決めます。そう、思い出という名の執着を手放す、と。
彼女を忘れるのではない。
「思い出という名の執着」を手放し、再び歩き出すために。
それは、新しい自分になるための儀式。「車椅子の藤井風」は、立派な額にいれて今までずっと大事にしていた彼女の思い出という名の「絵」に没年を記し、そして涙を流します。
彼女はもういない。けれど───
「車椅子の藤井風」、つまり彼の凍えた心がようやく、彼女を失ったことをきちんと受け止め、その「執着」を手放し、そして解き放たれたのです。その心は、最愛の彼女がかけてくれた温かい毛布にくるまれ、優しく見守られながら、安寧の地へと召されたのです。
本来であれば、MVはここで終わっても成立するでしょう。しかし、ここで終わらせなかったのは、切なく儚い物語として終わらせたくなかったからではないでしょうか。
最期のシーン、気持ちよく晴れた日、雪が残る霊園において、「今の藤井風」がお墓の前でほほ笑むところで物語は終わりを迎えます。
霊園に残る雪が、太陽の暖かさで少しづつ溶けていく様は、まるで彼の心が優しく穏やかに溶けていくよう。
最後に希望を見せ、救いを示し終わらせる。
それが藤井風なのです。
「起きることすべてに意味はあるから」
そんなマインドである藤井風ならではの物語だと私は思いました。まさに「喪失と再生」の物語、だと。
目に見えるもの、わかりやすいもの、周りから評価されるであろうものだけに固執してしまったばっかりに、本当に大切なものを見失い、そして気づいたときには永遠に失われてしまっていた。
そのことに後悔し、苦しみ、そして絶望した彼。心が悲鳴をあげ、そして死にかけていたその心。
その一方で、負の感情に囚われ、縛られ、そしてどこかで、悲しみという「魔薬」に酔いしれ執着してしまっていた自分に気づき、そこから自分を解き放っていく。
楽しかったこと、嬉しかったこと、そうした思い出にすがり、失ったことを悲しむのではなく、さまざまな思い出を自分にもたらし、そして自分の「人生のアトリエ」に素敵な「絵」を贈ってくれた「失き人たち」に感謝することが大事なのではないでしょうか。
生きている以上、今までに出会った人、そしてこれから出会うであろう人たちの「絵」は増え続けていきます。
人生とは、自分の中にある心のアトリエに「絵」を飾ること。
世界に二つとない、たった一枚の絵を飾り続けること。
内なる花を咲かせ、自分の花瓶にその花を挿すように。
「無駄な曲は一切作りたくない」
「NHK MUSIC SPECIAL ~藤井風、届け世界へ」のインタビューの中で彼はそう語っています。
多くの恵み「grace」を私たちに届けるために、彼は今日もまた「藤井風音楽堂」で世界に一曲だけの素晴らしい曲を奏でていることでしょう。
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