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愛・男女の友情、あるいはルサンチマン ~『侍女の物語』を読んで~

男女の友情はあり得るだろう。
それを愛とも呼んでもいい。
人によっては違う言葉で微妙なニュアンスを表現したいかもしれない。
人との付き合い方は千差万別だから、それでも構わない。
言い回しの適用の仕方を一律にすることに興味はないのだから。


マーガレット・アトウッドの『侍女の物語』を読んだ。
ディストピア小説の古典として有名な作品だ。続編の『誓願』もずいぶんと前に邦訳されたとのことだが、未だ読んでいない。
ディストピア小説としてはやはり言論統制の卓越さを評してオーウェルの『1984年』が格別だと言いたいけれど、それでもやはり、この『侍女の物語』が時流に埋没することを世間が宥さないことには、尤もな理由がありそうだ。

世界観を歴史やいまの社会情勢に照らして評するほどの教養はないし、これほどの名著となるとそういったものは既にごまんとあって素人の私が書くようなものは不要であろうから、とある一節について少し、書きたいと思う。

書きたいのは次の一節。司令官は“オブフレッド”に語りかける。

 我々は女性からいろいろなものを奪いましたが、それ以上のものを与えたんですよ、と司令官は言った。かつて彼女たちがどんな悩みを抱えていたかを考えてごらんなさい。シングル・バーや、高校のブラインド・デートがいかに屈辱的だったかを覚えていませんか? 肉体の市場のようなものでした。楽に男を手に入れられる娘と、なかなか男を手に入れられない娘とのあいだに残酷な差別があったのです。それを忘れましたか? 彼女たちの一部は絶望的になり、絶食して痩せたり、胸にシリコンをいっぱい注入したり、端を削り取ろうとしました。その人間の惨めさを考えてごらんなさい。
(中略)
しかも結婚したらしたで、ひとりかふたりの子供を抱えて取り残されることもあったのです。夫がウンザリして家を出てそれっきり姿を消してしまってね、彼女たちは生活保護を受けねばならなかった。そうでなくても、夫が家でぶらぶらして彼女たちを殴ったりした。また仕事を持てば持ったで、子供たちを保育所か、誰か乱暴で無知な女性に預けねばならなかった。しかもその費用を、彼女たちは惨めなほど少ない給料から捻出していたのですよ。あらゆる人間にとって唯一の価値基準はお金でした。彼女たちは母親になっても尊敬されなかった。女達が母親の役をすっかり投げ出そうとしていたのも当然です。でも今のような状態なら、女性たちは保護され、生物学的な役目も無事に果たすことができる。完全な援助と激励の下にね。さあ、言ってごらんなさい。あなたは知的な女性だ。あなたの意見を聞きたい。我々が見落とした点がありますか?

ハヤカワepi文庫『侍女の物語』 p.400-401

それに対して主人公の“オブフレッド”は「愛です」と応える。

 愛です、とわたしは言った。
 愛? と司令官は言った。どんな種類の愛です?
 恋に落ちることです、とわたしは言った。
 ああ、それなら、と彼は言った。雑誌で読みましたよ、それを雑誌は売り込んでいたんでしょう? でも、統計をごらんなさい。恋に落ちることに、それだけの価値がありましたか? 昔から、あらかじめ決められた縁組も同じぐらい良い結果を残してきたんですよ、それ以上ではなかったにせよね。

ハヤカワepi文庫『侍女の物語』 p. 401

“オブフレッド”とはこの小説の主人公である〈侍女〉の名前だ。〈侍女〉とは司令官や将校の子供を産む役割を充てられた女性のことになる。〈侍女〉は公然と”of 〇〇”という男性の所有物のように呼ばれ、レイプされることにはないにしろ(この国家はそのような無秩序を赦さない)、ある種モノ化されている。“産む器械”と見做されている。ただこの体制はそれほど歴史が深いものではなく、“オブフレッド”が若い頃に突如としてそのような体制となってしまったのだ。だから“オブフレッド”は自由な時代を知っている世代であるということになる。

さて引用部。頷けるところも多いだろう。美容広告、ルッキズムが跋扈はびこるネット社会では尚更だ。それが多くの女性の人生を左右するほどに深刻な問題としてこの日本に鎮座していることも、ジェンダー規範を強化することも、賃金の低さにも、恰も出生率を達成すべき結果かのように語り同調圧力の種とすることにも食傷うんざりだ。
勿論、子供を産むのが女の生物学的な役目などという同調圧力にも食傷うんざりなのだが。ただ、「完全な援助と激励の下」というのが恒久的に保証されるものと信ぜられ、そのような道徳規範が疑う余地のないものとなり、個人の意志が尚尊重される余地があるのであれば(本当にあるのであれば、というかそれは今の道徳規範に反する別の規範の下でのもので、尊重するというより無気力にすることによってそれ以外の可能性を考えられなくするという向きが強いと思うのだが、)ひょっとすると……ということもなくはないかもしれない。

ともあれここで書きたいのはそういった怒りではなく、愛とはなにか、という紋切り型の問いへの答えなのかもしれない。なのかもしれない、という倦怠すら漂う書き始めの理由は、書いてみなければ自分がどんなことを書くのかよくわからないことに由来する。尤も、普遍的なものとして提示したいわけではなく、“オブフレッド”がここで言う「愛」が何を指しているかということと、私の愛に対する見方を少しだけ書きたいだけなのだが。

”オブフレッド”が愛ですと応えたとき、私は意外に思った。”オブフレッド”はここで、女性の意志を尊重しないことを糾弾するものだと思っていた。でも、どういう訳で愛ですと応じなければならなかったか?
恋に落ちることすら見落とされているとは?

答えるに易きは後者の問い。これが何を指しているかというと、畢竟この世界における自由恋愛の不可能性を糾弾しているに過ぎない。この後”オブフレッド”はニックという男性と不倫をするのだが、その欲望が部分的に成就したことの充足感が後に描かれている。

 実を言うとね、わたしはもうここを離れたいとも、逃亡したいとも、自由を目指して国境を越えたいとも思わないのよ。わたしはここに、ニックと一生にいたいの。彼の近くに。
 わたしはこう言いながら自分が恥ずかしくなる。でも、そこにはもっと複雑な感情が含まれている。今でさえ、わたしはこの告白を一種の自慢話だと思う。そこには自惚れが感じられる。というのも、それはわたしの行為がすごく大胆であり。それゆえに正当であり、いかにそれが価値あることかを言い立てているからだ。それは回復した人間が話す大病や仮死の自慢話のようなものだ。戦争体験の話のようなものだ。それらはことの深刻さを示しているのだ。
 そんなふうに男に対して深刻になるなんて、かつてのわたしには想像もできなかった。
 昔はもっと合理的だった。わたしはそういうものを愛だとは思わなかった、わたしはこれも生きてゆくための代償だと自分に言い聞かせた。

ハヤカワepi文庫『侍女の物語』p.. 493-494

私見ではあるが注釈をつけるなら、この回想において大事なのはニックとの愛の営みの記憶そのものではなく、それをすることの実現可能性が彼女の中に開かれたことに、恋に”落ちてしまった”対象に己を投げ出す意志を実現する余地がないことにその重みがあるのだろう。愛の最中では、理性の関与を待たず、唯現実が賦与されるのみだ。ここに於いて欲望は実相と明確に区別されなくてはならない。

では、司令官に答えて“オブフレッド”は、どうしてその体制下では愛が見落とされていると言ったのか?
女性の意志、恋愛においては男性の意志もそうだが、それが尊重されない、実現され得ないことに対して異を唱えるべきではなかったか?
しかし、彼女はそうは言わなかった。
無力感からか?
渇求せめて愛だけは、という被抑圧者の誓願は、やはりそういった悲哀を帯びてしまうのだろうか?
私にはわからない。

兎も角、この物語で極めて悲痛に思われたのは、物語の欠如だ。尤も、物語が希求される際、多様性と同時に人を熱狂させる一方で時に懊悩させもするある種の規範もまた醸成され得るのだが、しかし選択可能性というのは、先人が希求してきたものであり、未だ平等には実現されていないというか永遠に実現されないだろうし、しかしそれ以前に利権政治は可能な限りそれを保障しようと努力することもなく、寧ろ無頓着であるのが通例だ。

ただ、選択というものは、やはり欲望や偏見に塗れている場合も多い。街中に溢れる美容広告はその顕著な例だ。問題となった大阪梅田駅の性的な広告の類も間接的にそれに関与し得る。俗物の要請に応えるのが善とされ、それに沿わぬものを貶め嘲笑することが日常となっている。なんと残酷なことか。しかし積極的にその欲望・視線の対象とならんと欲する人が見受けられるのは、この規範的意識が醸成された場における必然か、それとも偶然か?

嫉妬すること。視線や時間、意識の対象など、他者の自由意志に依る處のものを僅かの時間でも占有すること。その可能性が前提されているかどうかが、ある種の愛なのかもしれない。そういったことのほうが多いのかもしれない。小顔であること、ムダ毛がないことなどが善とされる価値観が生成され、持て囃され、その他の理想を高水準で兼備した者が愛すべき対象として在り、いくらかの要素を具備した対象としての自覚が愛さるべき対象としての自覚になり、そうではないなら逆の感情を抱く。選択の余地が広く開かれた社会というものは、そういった欠如を前提としたルサンチマン的な愛が瀰漫する社会なのかもしれない。






「下賤な肉欲だけが確と存在し、愛なんて目に見えぬ長期的な保証もないものは、存在の根拠なきものは詮無きものだ、なんて歪な見地が広がっているなら、私が希求する“男女の友情”的な恋愛は少数派で、存在し得るとしても虚構に映るのかもね」
私は言った。隣の寡黙な男友達は「そうだな」とだけ返す。
「もっとなんか言ってよ」
原理的にその存在証明ができないものなんて答えるに値しないのだろうな、と思いつつ、私は通俗的な回答を求める。
「まあ単純に、どこまでもそう言えるってだけだよ、原理的に。俗な回答をするなら、永遠の愛が信じられないってことなんじゃないか」
ブレないな、と思い、私は22時過ぎのドンキ前の人の往来をテラスから瞥見する。二人詰まらぬ会話を颯に終わらせることを願い、私は致し方なしに吐かれた流言を拾う。
「永遠の愛なんて………………結局は未来じゃなくて過去数年の問題でしかないんだよね。でもその過去こそが未来でも、それを運命愛的に可能足らしめるのかもね」

風がうなじを擽る心地良さを感じながら、私は金閣を焼き払った。


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