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愛情について

私の親は私を愛してくれているように思える。
すごく曖昧でふわっとした文章になるけど、そう体感するぐらいには親からの愛情表現はふわふわして形が見えない。

母の場合、愛情は愛情なのだが博愛主義なのも相まってその感情が私にだけ向けられているものなのかわからない時がある。私も母ももっと若い頃はそれがひどかった。誰も愛するということは誰も特別ではないということで、それは凸凹のない平坦な世界だ。私は例え凹凸の凹になったとしても優劣のついた世界の方が好き。

父はまた違う。愛情というものをどう相手に表せばいいのかわからない人。きっとそう接されてきたから返せないんだろうとは祖父母を見て思った。そして親愛や家族愛というものを口に出すのは恥ずかしく、察してくれの人間。 

わかんねーよ。

未だに父の考えていることはよくわからない。
私が美大を選んだときも、鬱になったときも、編入したときも、引越しをしたときも、主立ったアクションは見られなかった。いや、栃木に引っ越したときはわざわざ田舎まで様子を見に来た。なぜかキャリーケースいっぱいにとうもろこしを詰めてきて、親戚に渡していた。それはちょっと面白かった。
恥ずかしいという立場にいたくない人、それが父。例えそれが苛めではない笑いだとしても自分を笑われるのが嫌いな人。過敏だと思う反面で、わからないでもない。

だから子供にかける言葉は数少ない。昔はそれこそ上っ面だけのうっすいフリーペーパーぐらいの言葉だった。最近は、私の現在の状況にぽつりぽつりと慰めるような雰囲気を醸し出してくる。からかってもくるけど。


そもそも愛情なんて自分が欲した形でもらえることはないと、私は思っている。
言葉で伝えたところで、行動で表現したところで、三割程度しか相手には伝わらないんじゃないだろうか。

それを子供の頃から、自分が欲した愛情の100の形を求めて求めて30まで来てしまった。親の愛情と私が求めているものが違うことは薄々気づいていたけれど、諦めとすり合わせができるようになったのはここ数ヶ月の話だ。みんなどこで折り合いをつけているんだろう。

私は愛情を怖いと感じる。
私と向き合ってくる人が怖くて、そのたんびに遠ざけてしまう。相手は悪くない、これは私の問題。

母や、元恋人や、知り合って好感を抱いてくれる人。
ダイレクトに愛情の箱を渡されると、押し付けられたその箱をどうすればいいのかわからなくて立ち止まる。

開けてもいいものか、私に渡されたものだからいいんだろうけれど、開けて確かめる勇気がでない。
ならどうする?
ずっと持ったままだと腕が疲れる、相手は私からの箱が返ってくるのを待っている。
気まずいのが嫌で、早く応対しないといけないという焦りで、私はその箱を相手に突き返す。いつもそう。悪い時は箱を見なかったことにする。

でも私にはその箱に得体の知れないものが入っている気がして、開けられないのだ。
人が愛情と呼ぶものが私には重すぎて受け取れない。


それで、家族愛について話を戻す。

妹は私を慕ってくれているらしい。なぜだかは分からない。でもそれは姉の私が彼女に向けるものと同じだと思えばさして理由なんて気にならない。
親から私への気持ちも同じなのか?
少し違うような、似ているような。よくわからないような。

子を持った親の意見として
「元気でさえいてくれればいい」
とはよく聞く。

果たして本当にそうだろうか。
私は30年経っても自分を不出来だと思いながら生きているので、元気でさえ〜については受け止められない。実際問題、元気でいないのだし。
元気で、仕事をして、友達や知り合いがいて、あわよくば結婚してほしいのでは?違う?

そんな考えを持つのは、私が子供を持たないからなのかひねくれているからなのかは謎のままだ。

話が脱線しまくるので今日はここまで。

結論、私には愛情は荷が重い。

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