表現を感じてきた。
わが町でついに芸術祭が行われた。
若き演劇のグループが、仲間を呼んで二十人以上の人達。
それぞれの表現をきっと、すべての参加者が楽しまれたと思う。
私は休業日の今日、私と同じ苗字の若者が参加する回を観に行った。
格好いいですね~。俺にもこんな時期があったのか?
家から歩いて30秒のおぐセンターへ。
二時間弱に2つの演目。
一つは、一人の女性が、演劇仲間の小さい頃のなんとなく怖かった思い出を聞き、それを自分が咀嚼して、自分の声で語る。
演劇は映画と違って、ロケーションを変えることもできないし、基本的には服装や髪型も変えない。
そんな縛りのある中で、声色を変えたり、姿勢を変えたり、髪型をかすかに変えたり、そんな中で、さまざまな人の昔の思い出を自分の声で再現していく。
そして、聴いている私達も、その話を自分の小さい頃の思い出を引っ張りながら、こころの中で再現していく。
面白いですね。目に見えないし、同じ体験をしていないのに、それぞれが表現をバトンタッチしていく。
表現者は辻村優子さん。
わりと淡々と語られたのですが、その影響なのか、自分の心の中にその後も淡々と引きずっているのが心地よい。
十分の休憩を挟んで、長沼君たち十人弱の演劇。
辻村さんの静かな時間と対照的に、強烈な音、声、設定で始まる。
始まるというか、準備に少し時間がかかるのが、それが演劇の導入にもなっている。
もともと舞台ではない、古い木の柱むき出しの空間を活かしながら、ものが散らばっていき、いろんな話が交差し、肉体のエネルギーが古い建物の中で炸裂する。
長沼君の凶暴な原始的な肉体表現が、荒削りで刺激的だった。
そして、エンディングへ。
この古い建物を活かしながら終わっていく。
この街を借景のように活かしてくれる演劇があったらなぁ、と思っていたが、最後にそんな部分があった。
演目が終わる。
近くの別の空間で、少しだけ時間をおいて、別の演目があるんだけど、子供の具合が悪かったので、急いで家に帰った。
やっぱり、一回目って何でも特別ですよね。
地元の人間が顔を出した、ということで主催の方に喜んでもらえて、嬉しかった。
こどもの調子が良かったので、少し自転車に乗ることにした。
普段、目に見えるもの、数に数えられるものばかりを追いかけてしまうが、こういうゆっくり心の底から何かが湧いてくるような時間って大事だな、と思いながら自転車に乗ったのだった。
この街で。
私の表現、終りです。