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自分にとって一番大きな人。徒歩単独北極点到達、河野兵市さんについて。

みなさんは河野兵市さんをご存知でしょうか?

日本人で初めて北極点に単独徒歩で到達した人です。

彼と初めて出会ったのは日本アドベンチャーサイクリストクラブ(JACC)の会合でした。

ほとんどの日本人が普通の海外旅行さえしなかった、1ドルが360円で固定され、海外に持ち出せる日本円も制限されていた時代に、キャンプツーリング用の自転車にキャンプ装備を満載にして世界を一周をした猛者達が帰国後、これから旅立つ人達に情報交換をする場になっていました。

会合に参加すると、日本の一部を軽装のキャンプ装備で走るくらいの自分の目の前に錚々たる人たちがいて、その、人としての大きさに、自分が井の中の蛙だったことを思い知らされました。

その中でも際立っていたのは河野兵市さんでした。

体がデカくガッシリしていて、口数は少ないけれど、何か話しかければ、ニッコリと、とつとつと優しく話してくれました。

自転車で世界一周を終えた彼は、リアカーを引いて徒歩でのサハラ砂漠横断を決意、成功させます。

入会し、その発表会の手伝いをしたのは、懐かしい思い出です。

そして彼が次に目指したのは、北極点単独徒歩到達。

彼はそれを日本人として初めて成功させ、NHKの速報で画面に彼と雪橇(そり)の写真が映し出されたときには、感動で震えました。

一気に有名人になりました。

世間が次の冒険を求めます。

彼は北極点から彼の生まれ故郷である愛媛県の半島の突端まで徒歩で帰る冒険を目指しました。

「植村直己さんは、冒険の資金を集めるために無理な計画を立てざるを得なくなり、それで命を落とした。俺はそうはならない。」

と言い、個人ベースで資金を貯めていました。

しかし、彼の周りにはいろんな人が集まって来ました。いま振り返ると「勝ち馬に乗る」というのはこういう人達のことなんだなぁ、と思います。

また、北極点へ行くタイミングを図りかねていました。気候が例年のように安定していない。

気候変動は北極にも来ていたのです。

「もうこれ以上は待つことができない。春になり北極の氷が薄くなれば、歩いて大陸に到達することはできない」

そう言い、旅立ちました。

そして実際に、氷が薄く、渡れるルートを探している中、あともう少しでアメリカ大陸に着くタイミングで、連絡が途絶えました。

カナダかアメリカかは忘れましたが、懸命にヘリや航空機で捜索をしてくださいました。

ソリを発見し、河野兵市さんが海中で亡くなっているのが確認されました。

もう三十年位前の話です。

私にとって、自分の人生を通して、一番大きな人は、この人です。

自分の中での「ものさし」になっています。

世の中には、様々な権威を持った人がいます。

お金のある人、権力を持っている人、名声のある人、自分を良く見せるのが得意な人。

そういう人に出会うと、必ず河野兵市さんを思い浮かべます。

その人の横に河野兵市さんが現れるのです。
そうすると、目の前にいる人の、裸の姿が見えて来ます。

守護神のように、今でもそばにいてくれます。

亡くなって三十年。

 …

今日は、普段の日曜日のように自転車で山手線沿線を一周しました。

二週間ほど前に肋骨にヒビを入れてしまったので、走りきれるか分からなかった。

路面の段差があるところで自転車が突き上がると痛いが、いつもよりゆっくり走ったので総合的には楽だった。

板橋を過ぎて、トイレに入りたくなり、王子新道の途中にある区立のスポーツセンターに入る。

植村記念館とも書いてある。

まさか植村直己さん?

と、中に入るとまさに植村直己さんだった。

この辺に住んでいたのか⁉

植村直己さんが北極を冒険されていた頃の写真や実物のソリが展示されていた。

「ああ、こんなソリで河野兵市さんも自分の故郷を目指していたのか!」






ひょっとしたら、今日ここに来たのは必然かも知れない、河野兵市さんから何かメッセージがあったのかもしれない。

そう思いながら、肋骨にヒビの入った体で深呼吸して、ゴールの実家を目指した。

ありがとう河野兵市さん。