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表現まつりは、表情まつりだった

自分の店がある通りでの、演劇主体の2週間にわたるイベントが終わった。

これは、うちの商店街の中に拠点を持つ演劇の団体が、その拠点をシェアしているグループや個人に声をかけて、自分たちが追求している演技やスキルを表現し合おう、折角ならこの西尾久で、という自発的なイベント。

イベントスペースとして、野外を含め4つの場所を確保された。

個別にイベントスペースとして貸し出された個別の店や広場以外に、商店街や各商店、町会には、ポスターの掲示や長テーブルの貸し出しぐらいしか依頼はされてなく、ほとんど全てを彼らの持ち出して行われているようだ。

各商店に協賛金などを依頼されたら、うちの店は喜んで受けるつもりだったが、一切ない。

それなのに、この2週間で商店街を訪れた人の数はとても多く、実際うちの天ぷら屋にも相当な人数が、この街っぽくない人が、天ぷらを買いに来てくれた。

 ◇ ◇ ◇

イベントの趣旨が、表現技術の探求成果発表のようなので、地元の住人が気軽に楽しめるプログラムは、ほぼない。

私は少しは演劇を観ている方だが、これなら理解でき大丈夫かなというプログラムを鑑賞しても、難しいものもある。

理解できそうにないけど、それでも観ようと思うのは何故か、この2週間は考えていた。

最終日の今日。ほぼ最後の演目を野外で雨の中の観た。

これも、理解しにくい部分はたくさんある。

それでも、後悔はしない。

何故だろう。

雨の中、演じられている三人を眺めながら考える。

「演劇の人達には、顔や言葉に表情がある」

「何かを伝えようとする想いがある」

年々、天ぷらを買いに来る一般の人達の、表情がなくなってくるのを感じる。

お年寄りは身よりなく、テレビだけを見て過ごしている。買い物もスーパーやコンビニで、そこに表情や会話は薄い。

子育て世代の大人も、画面を見て仕事をしている人が多いからか、言葉数は多少はあっても無表情な人が多い。

子供も。

そんな中で、演劇に関係する人達は表情がまだ生きている。言葉も死んでいない。目も。

磁石に砂鉄が引き寄せられるように、私は演劇の人達が持つこの表情に引き寄せられているんだ、ということが分かった。

演劇の作品をどう記録するか、という話が、今回のトークイベントで話題に上がったが、自分なりに考えると、「人間が持つ喜怒哀楽とその表情、そしてその奥にある血の温かさを、生きたままの表現を通じて未来に受け継いでいく」という、大事な役目があるんじゃないかと思った。

俳優の方、翻訳の方、音響や舞台設備の方、様々なスタッフ、脚本家、演出家。

皆さんの引き締まった本番の顔、本番が終わって少し緩んだ顔で天ぷらや天丼を買ってくれる時の顔、たくさんの顔が走馬灯のように、いま一人で居酒屋で飲みながら浮かんでくる。

いつまでも世界が、泣く時があっても笑顔が最後にある、感情を出すことが許される世界でありますよう。

準備期間を含め、商店主として、個人として至極な時間を過ごさせてもらいました。

ありがとう。