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僕が見た「ハイパーポップの死」

(めっちゃ適当に書いてます、怒らないでください)

ハイパーポップとの出会いは2016〜2017年ごろでした。当時この名称はメジャーではなく、『ティーンポップ』、『バブルガムポップ』をはじめ『実験音楽』や『エレクトロニックミュージック』という分類をされることが多かったため、僕も「これはハイパーポップだ」と認識しながら聞いたことはありませんでした。
元々小さい頃、赤ちゃんの頃からゲームが近くにある環境だったためか電子音楽への抵抗が全くなく、というより好んで聞いていて、特にArcaやFKA Twigsは音楽にハマるきっかけにもなったアーティストでした。

そんな中で僕がハイパーポップを確実に認識するキッカケになったのがCharli XCXの"Pop2"、完全にノックアウトされました。

当時色々と調べ上の記事のような内容を知りました。特にPC Musicというコミュニティについて。

しかしもう一つの側面、(これは肌で感じていた部分もあるかもしれませんが)『「価値のない」ポップミュージックのメタとして作っていた』部分はなかなかとりあげられません。当時さまざまなアーティストが否定していた大衆音楽をわざと作ることで「ポップスの真の価値」を主張していたのが、僕にとっての「ハイパーポップ」でした。

1.ハイパーポップの名盤"Pop2"

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Pop2は2017年12月15日にリリース、時系列的にはハイパーポップ初期の作品とは言えないですが、多くの人に「ハイパーポップとは何か」を示した力強く筋の通ったアルバムでした。

個人的な出会いでいうとPitchforkでのアルバムレビューがきっかけでした。

シンプルに点数の高さに驚きました。当時のチャーリーといえばイギーアゼリアの”Fancy”でフィーチャリングされているのとアルバム”Sucker”のイメージしかなかったからです。
聞いても驚きました。Suckerとは全く違う、普段聴く音楽とも違うサウンド、オーガニックな要素が1ミリもなくこれでもかとエッジーでメタリックなシンセ。そしてこれでもかというくらいキャッチーな曲づくり、耳にこべりつくまで繰り返されるコーラスパート、そこに相反するかのような曲構成の奇抜さは僕にとって未知との遭遇であり、その当時の作品としては珍しい混じりっけのない楽しさや喜びを与えてくれるアルバムでした。今聞き返してもその気持ちは変わらずあります。そのくらい僕にとって、そしておそらく多くの人を狂わせる力がありました。

正確にはPop2はアルバムというよりミックステープという位置付けになります。理由としてはおそらくレーベルとの確執があったのではないかと思います。
Suckerがまさにそうでしたが、レーベルの売り込み方としてロックポップやガールズポップのようなサウンドでのイメージづくりをされており、大衆受けの悪い突飛なサウンドはレーベルからもあまりよく思われていませんでした。
しかしチャーリーはそういった衝突はあったものの大衆に向けたポップスを否定しているわけではありませんでした。「ブリトニースピアーズをリスペクトしている」と多くのインタビューで語っており、ポップスから受けた影響も多くあったといいます。
それを裏付けるようにPop2にはキャッチーなフレーズが多く存在し、果てしなく繰り返されます。これは彼女が愛した90`sのポップスが根底にあることを感じさせます。
こう見るとレーベルが「大衆に向けて売り出したい」という考えとチャーリー作り出すキャッチーなポップスは一致しているように感じますが、彼女にはより自身を、ポップスを主張したいという想いがあり、それがPC Musicとの出会いやレーベルとの衝突につながったのではないでしょうか。

2.ポップスを否定するアーティスト

チャーリーのレーベルとの衝突は音楽業界として見れば珍しい出来事ではありませんでした。2010年代は多くのアーティストが自身の作られたイメージを否定しました。これはフェミニズム的側面が強い流れでしたが、その中で間接的に否定されたのが大衆音楽、ポップスでした。
僕が印象的だったのは2013年のビヨンセのセルフタイトルアルバム、リアーナの”Anti”です。アルバムの仕上がりはもちろんですが、リリースを決めたそれぞれの選択はアーティストの在り方、表現を変える偉大な功績です。唯一の弊害はそれぞれが過去に作り上げた内容を「自身のしたい表現ではなかった」と否定したことです。これが上記の”間接的なポップスの否定”に繋がります。
僕の感想ですが、当時ポップスは「理想を並べたショーケース」となっており、アーティストの意向というよりビジネス的な側面が強かったのではないかと思います。合わせてこのショーケースは女性へのステレオタイプを植え付けるようなフェミニズムとは対立してしまう内容(歌詞ではエンパワーメント的な内容を歌っていても)だったことも大きい要因だと思います。
またケンドリックラマーやフランクオーシャンなどヒップホップやR&Bの台頭、社会的意味を大きくもった作品が評価されたことも、ポップスにとっては相対的に「無意味」を認識させる大きな逆風でした。虎の威を借る狐とはよくいったもので、ポップシンガーはトラップやR&Bのテイストを加えながら、まるでポップスにも価値があるかのようにリリースをしていきました。


「大衆を魅了するフェイクのショーケース」、キャッチーなポップスは価値のなさを露呈され瀕死状態だったのだと思います。しかしポップスの真の価値はその「価値のなさ」にこそあるものです。上記のムーブメントはポップスの核である純粋な楽しさ、快楽主義を意図せず否定してしまいました。この窮地からポップスを救ったのが、ポップスの真の価値を唱えたハイパーポップだったのではないでしょうか。

3.ポップスのスケープゴート


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過去数年間を振り返ると、僕にとってはハイパーポップは音楽のジャンルというよりPC Musicが押し進めたムーブメントという方がしっくり来ます。サウンド云々ではなく2010年代に死んだポップスを蘇らす一つの儀式のような。ポップスの可能性を試す実験のようでもありました。100 gecsはじめ、ほかジャンルでは考えられない質感や色味の手数の多さを見せつけるような楽曲も多くあります。
ネットの片隅で行われていたこの活動は世に知れ渡り、ハイパーポップはそのサウンドの奇抜さから多くの注目を惹きました。僕が一番驚いたのはKPOPグループaespaの”Savege”がハイパーポップ的サウンドを採用していたことです。この曲、アルバムは昨年のKPOPの代表するようなアルバムでもあります。
さまざまな楽曲でこのサウンドは普及していますが、そういった楽曲をハイパーポップと呼ぶのはどこかしっくりこない自分がいます。メインストリームへの反骨精神をメタとして表現したジャンルが、メインストリームに顔を出したというのはなんとも不思議な感覚で、ハイパーポップはすでに本来の役目を果たしたのではないのかなとも思います。
PC Musicの発起人であるA.G.Cookは日本を代表するアーティスト、宇多田ヒカルと作品作りをしており、チャーリーも従来のシンセサウンドからは離れています。またSOPHIEは不慮の事故で亡くなっており、PC Musicの顔でもあった彼女の生々しくメタリックなサウンドはもう聞くことができません。
このタイトルにも書きましたが、サウンドだけが残り形骸化したハイパーポップは、ポップスのスケープゴートとしてすでに役目を終えたのかもしれません。


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