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「今夜、ロマンス劇場で」と、人間の未来の選択

友人のWに、「今夜、ロマンス劇場で」を観たことを話したら、彼はこの映画を「ちゃんと作られたライトノベルみたいな映画だ」と評した。非現実と現実とが出会い、恋をする。自分はライトノベルに疎いからよく分からないけれど、確かにライトノベルで書かれていそうな内容だ。だけど、この映画は、「ライトノベル」という言葉ではとりこぼしてしまうような、重要な意味もまた持っている気がする。そうでなければ、ライトノベルと親和性のない自分が、ここまで映画に深く入り込むことはなかっただろうから。

2次元のキャラクターに恋をする人がいる。自分的にはよく分からない話だけれど、住む世界がそもそも次元から違う相手を好きになるというのはすごいと思う。が、注意して欲しい。キャラクターは単純に2次元の中にいるのではない。物語の中にいるのだ。物語は結局は嘘、虚構である。キャラクターはその嘘の物語を演じている役者に過ぎない。本作の綾瀬はるか演じるヒロインは、そのことをよく分かっていた。白黒映画から抜け出してきた彼女は、物語の「外」にいると理解するにつれ、まるで演技を終えた女優のように、キャラクターから人間へとなっていく。

そうしたヒロインに思いを寄せる主人公(坂口健太郎)がイタイ人に映らないのは、思いを寄せるヒロインの中に、キャラクターではなくて、人間を見ているからだ。そして、どの地点からか、ヒロインは私たちの目にも、キャラクターではなくて1人の人間として映るようになる。その時私たちは見るのだ。彼女と主人公の未来を。

映像自体は恋愛映画の金字塔「ローマの休日」のような雰囲気を醸し出していながら、本作は目の前にある恋愛よりもその先を見据える。未来を見据えるからこそ、ヒロインと主人公の間にある、重大な障壁に真剣に向き合うこととなる。実は、彼女は、人の温もりに触れると消えてしまうのだ(実はとか言っちゃったけど、これは予告にも書いてあることだからネタバレではない)。

主人公の友人は言う。「好きな人にさ、触れずに生きていけると思うか?」しかし「今夜、ロマンス劇場で」を観ている観客はその友人のように断言できないはずだ。それは主人公とヒロインの、人間同士の心の交流を見ているから。触れ合えるか触れ合えないかという問題と、人間同士の心の交流という問題とのせめぎ合いになるわけだけれど、個人的には、未来を考えた時に、心の交流の方が大きい意味を持ってくるように思う。もちろん逆に未来を考えた時に、触れる触れ合えないの方が大事だと思う人もいるだろうとは思う(介護の問題とかもあるしね)けれど。

哲学者ベルクソンがこの映画を観たらこういうだろうと勝手に思っている。
「結局、私たちが知覚しているものは物質ではなくてイマージュだ。身体が触れるという感覚もイマージュ。心が触れ合うという感覚もイマージュ。私たちの記憶によって、それが物質として捉えられているだけのことなんだ」
何かを選ぶことが、何かを選ばなかったことにはならないのかもしれない。それらは全て同じ次元、同じイマージュの話なのだ。映画から抜け出ていようが出ていまいが関係なく、私たち人間はみんな、それぞれ自分がこの先大事にしていきたいイマージュを決めて、それらを記憶として蓄積しながら生きるのだ。それが物質になることを夢見ながら。

キャラクターと人間。瞬間と未来。身体の触れ合いと心の触れ合い。こうした様々な視点が現れ、重なり合うことで、「今夜、ロマンス劇場で」は、ライトノベルのような物語を、現実に生きる私たちの心に引っ張り込むことに成功したのだと思う。

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