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【シアターコモンズ'24】アーティスト・トーク/サオダット・イズマイロボ

2024年3月2日(土)
アンスティチュ・フランセ エスパス・イマージュ
聞き手:相馬千秋 通訳:平野暁人
編集・執筆:阿部幸

写真上:『Chillpiq』
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相馬 今回、サオダットさんの5作品を2時間半に渡って一挙上映いたしました。このようにまとまって作品を観ることができる機会はなかなかないと思います。私自身、今日の上映を見て大変感動しているところです。
 サオダットさんの作品は、2022年のドクメンタやヴェネツィア・ビエンナーレに招待されています。また私がキュレーンションしたドイツでの世界演劇祭(2023)でも上映しましたが、そうした機会には展示、Expositionという枠組みで上映する形を取っていました。世界演劇祭では、美術館のスペースに、ウズベキスタン風のベッドを敷いて、寝ながら作品を鑑賞できるという形にしたのですが、「展示」という枠組みだと、どうしても観客の出入りがあったり、途中から作品をみるということになります。それに対して、今日は初めから終わりまで、一挙に上映して観ていただくことができました。
 今回の上映順は、サオダットさんと相談して決めたのですが、例えば最後の『ビビ・セシャンベ』(Bibi Seshanbe/2022)や『Chillpiq』(Chillpiq/2018)はタイトルが表示されないのです。『ビビ・セシャンべ』が終わって『Chillpiq』が始まった時、同じ作品が続いているかのように感じられた方もいらっしゃったのではないでしょうか。5つの作品を一挙に上映することで、様々なモチーフがいくつかの作品に登場し、作品の世界が繋がっていることを感じられたのではないでしょうか。
 私の方からは、作品の中に何度も登場してきた表象について、いくつかお伺いしていきたいと思います。まずは、非常に印象的な「塔」というモチーフについて。サオダットさんの映画においては、どのような存在なのでしょうか。

サオダット 最後の作品の舞台となっている丘のような場所は、ウズベキスタンの西南部に位置するChillpiqと呼ばれている場所です。実は、最初からこの場所で撮影をしようと思って訪れたわけではなかったのです。別の作品の撮影のため、この近くを2時間ほどかけて毎日通っていたことがありました。その度に、「あの山のようなものはいったいなんだろう」と思っていました。ある時、運転手さんに頼んで近くでおろしてもらい、自分一人で登ってみることにしました。私は、ある場所なり物事なりと出会う時には、自分一人で訪れてみて、そこで自分の中に何が湧きあがってくるのか、またその場所とどのような繋がりが生まれてくるのかといったことを大事にしています。それで、この時も一人で登ってみることにしたのです。朝の5時くらいで、朝日が登ってくるところでした。それは聖なる時間の中での出来事でした。頂上に登ると強い風が吹いており、私の体のほこりを払っていくようでした。その時、私は、自分が何者であるかを瞬時に理解したのです。私は、無意識のうちに西の方を向いていました。なぜ西だったのか。自分に問いかけた時、答えは明らかでした。というのは、私の故郷ウズベキスタンには、遊牧と定住という、2つの文化があります。Chillpiqの丘から西の方を眺めると、右側にはステップ高原が広がっています。それは、何もない空間です。他方、左側には農地として耕かされた緑地が広がっていました。
 そして、この土地はかつては死体を葬る場所でもありました。ゾロアスター教では、大地は神聖なものだったため汚さないよう死体を土に埋葬せず、火もまた神聖であるため火葬もしませんでした。そのため、人が亡くなった時、その死体をこの場所に置いて、鳥に食べさせていたのです。

『Chillpiq』

相馬 私自身も、イランで同じような場所を訪れた経験がありました。ゾロアスター教の世界は、光と闇の二元論で成り立っているかと思いますが、イランでは太陽が照らす場所はまさに光しかなく、そして一度太陽の影に入ると今度は闇しかない。そうした地域の風土は、信仰にも影響を与えるのではと感じる体験でした。
 ゾロアスター教といえば、「火」との関連が思い当たります。サオダットさんの映画においては、「火」はどのような存在でしょうか。

サオダット 火というモチーフもまた、私がコントロールできない無意識の中から立ち上がってくるものです。今日見ていただいた作品のうち、3つの作品で火にはナラティヴな役割があります。『彼女の権利』(Her Right/2020)では、ヴェールを燃やすという役割。『亡霊たち』(The Haunted/2017)ではトラたちを絶滅に追いやるソ連時代の脅威を表しています。『ビビ・セシャンべ』では、女性たちの執り行う儀式の一部として火が登場してきます。そうしたナラティヴな役割ももちろんあるのですが、何より私にとって、火や太陽の光というものは、無意識のうちに湧き上がってくるものでした。

相馬 『18,000の世界』(18,000 Worlds/2023)に現れる、「18,000の世界がある」という概念は、イスラム教の神秘主義、スーフィズムの中に見られるということですが、サオダットさんにとっては身近な概念だったのでしょうか。

サオダット 実は、イスラム教の正統の中には、こうした考え方はないのです。私は一度、「コーラン」の中に「18,000の世界」への言及箇所がないか探したことがあるのですが、ありませんでした。しかし、私にとっては非常に身近な概念でした。と申しますのも、私の祖母が、何度も何度も語ってくれたからです。これは、スフラワルディーという「照明学」の祖となるイスラム神秘主義、スーフィズムの思想家の思想です。世界を水平的に捉えて異なる世界が並立しているというのではなく、世界を時に垂直的な、動き、運動の中で捉えていくという考え方です。動くものにはさまざまなものがありますが、特に重要なものとして「時」があります。また、「光」も重要です。スフラワルディーの思想のベースにはゾロアスター教がありますが、ゾロアスター教においては、世界は「光」と「闇」で成り立っています。
 オランダのEye Museumでの個展の際に、展覧会のタイトルを《18000の世界》としました。実は、最初に主催者から私のいくつかの作品を展示したいという提案をもらった時、私は「なぜそれらの作品なのだろう?」と思いました。私は、作品を提示する時には、いつもそこになんらかの道筋を持たせたいと考えています。そこで、「18,000の世界」という概念を使って、一つ一つの作品も、その18000の世界の一つである、といった形で示すことを考えました。また、そのようなまとまりを生み出すために、『18000の世界』という映像作品を制作しました。しかし、実はこの時、展覧会までの期間が非常に短く、新たに作品を撮り直す時間がありませんでした。そこで、過去に撮影した、未使用の断片の中から選び直して編集するという方法をとりました。

『18,000の世界』
『18,000の世界』

相馬 映像の断片を使用していくといった点では、『彼女の権利』もまた、ドキュメンタリー映像の断片をたくさん私たちに見せてくれます。これだけ多くの映像に取り囲まれた現代において、私たちの観ることのなかった映像を観せていただき、こんな映像があったのかという驚きと、私たちがいかに偏った映像に囲まれているかということを感じました。

サオダット 『彼女の権利』は、コロナ禍で制作した作品です。あの頃、撮影をしたくても出来ないという状況が一年余りも続く中で、何かが出来ないかと考えて作った作品です。ソ連時代に撮影されたドキュメンタリー映像をたくさん使っています。映画というのは政治イデオロギーを表現する手段となるメディアですので、ソ連崩壊後、ソビエト・ウズベク時代の映画というものは上映される機会が全くなくなっていました。しかし、ソ連時代のものだから全てが悪いとして捨て去るのではなく、良いものは良いと認めていくことも大切なのではないかと思っています。

相馬 ウズベキスタンでも、『彼女の権利』は上映される機会があるのでしょうか。

サオダット あります。人々も、熱心に観てくれます。そこで映し出されているのは、歴史、それも最近の歴史だからです。『彼女の権利』で描かれている女性の解放ということについて申しますと、実はソ連より以前、帝政ロシアの時代に、進歩主義者たちによる女性解放運動というものがありました。これは、長期的な視野で女性の解放を目指すというもので、教育をその手段としていました。女性たちを教育することによって、女性たち自身が、ヴェールを被ることの意味を考え、ヴェールを被り続け、また家に留まり続けるのか、あるいは脱ぎ、働きに出るのか、選択できるようになることを目指していました。ところが、こうしたやり方は非常に時間がかかるわけです。一方、ソ連が主導した「フジュム」運動、「フジュム」はアラビア語で攻撃という意味なのですが、これは言わば無理やり女性たちにヴェールを脱がせるというものでした。無理やりヴェールを脱がされた場合、女性たち自身が、「なぜ脱ぐのか」ということを理解することが出来ません。そのため、これは身体的な暴力以外の何物でもありませんでした。この運動は、実際、1927年ころから始まって、第二次世界大戦の後まで続きました。

『彼女の権利』

相馬『ビビ・セシャンべ』について、このお話は中央アジア版のシンデレラ・ストーリーですが、サオダットさんの映画には王子様が出てきません。これはどうしてでしょうか。

サオダット 実は、中央アジア版のシンデレラにも、王子様は出てくるのですが、私は好きではないので(笑)、映画に登場させませんでした。世の中にはさまざまなものがある中で、王子様と出会って結ばれるということだけが幸せの形ではないと思うからです。
 中央アジア版のシンデレラと西欧のシンデレラとの最大の違いは、私は、中央アジア版のシンデレラはアノニマスな、つまり無名の匿名の存在であるという点だと思っています。中央アジア版のシンデレラは、私かもしれないし、あなたかもしれないのです。

相馬 王子の不在の代わりに、女性たちのコミュニティーにおける連帯が描かれているように感じました。

サオダット 王子は出てこないのですが、それは決して男性批判というわけではないのです。私は決して王子の不在を補う存在として女性たちのコミュニティーを置いたわけではありませんでした。しかし、確かに『ビビ・セシャンべ』が描く儀式においては、女性たちの集団がその担い手となって登場します。
 また、「ビビ・セシャンべ」というのは聖人なのですが、単なる昔話として描くのではなく、現代との繋がりを持たせたいと思い、アリポワさんという医師を取り上げました。彼女は、家庭内暴力を受け苦しむ女性たちを保護するシェルターを作り、身体的にも精神的にも傷ついた女性たちのケアに取り組んでいる人です。女性が家庭内暴力を受けた時、そこから逃れる手段として火傷によって自殺しようとします。また、自殺を試みた女性は、もう家に帰ることができなくなってしまいます。アリポワ医師は、火傷の傷を治療するとともに、家を失った女性を保護し、精神的にも支援しようとしています。

『ビビ・セシャンベ』

相馬 サオダットさんの創作においては、個人や共同体の持つ記憶へのリサーチというものが重要な位置を占めているように思います。

サオダット リサーチは非常に重要です。リサーチによって得たものをベースに、創作が始まっていくからです。例えば、『彼女の権利』を創作するにあたっては、ヌルホンという若いダンサーに関するリサーチがもとにありました。彼女は、1928年に初めてヴェールなしで舞台に立った女性のダンサーで、そのために兄に殺されたという人物です。

相馬 最後に、『Chillpiq』では40人の女性たちが登場します。どうして40人の女性だったのでしょう。

サオダット この作品を撮影した時、実は私は『Qyrq Qyz(40人の少女)』というミュージカル映画を撮影していました。女性の戦士たちをテーマにした口承の物語をベースにしている作品で、その撮影許可が降りるのを待っていた時のことでした。何しろ大所帯ですので、1日待機するだけでもお金がかかります。そこで、Chillpiqに皆で行ってみようと思いました。
 私は、彼女たちに演出をほどこすつもりはありませんでした。ただ一つ指示したのが、手首に白い布切れを巻いてくださいということです。それ以外は特に指示を与えず、「観察」することに徹しました。
 実は、Chillpiqのすぐそばに、この女性の戦士たちが最後の戦いで命を落としたとされている場所があります。40人の女性たちの中には、Chillpiqがどういう場所なのか知っている人がいました。しかし、それ以外の人は何も知りません。そのような状況の中で、彼女たちは自然とあのような動きをしたのです。私は、聖なる場所に身体を置いた時、身体がどのように反応するのかということを描きたいと思っていました。

相馬 『Chillpiq』では、少女たちが岩場の隙間を通って丘に登っていきます。『ビビ・セシャンべ』でも、主人公の女性が岩の隙間を通って願いごとをしに行くというシーンがあり、ここでもサオダットさんの映画の世界の繋がりを感じました。それでは、ここで会場の皆様からのご質問を募りたいと思います。

【質疑応答より】

——『ビビ・セシャンべ』の中で、外国語のテレビが映されて、ドイツ語で喋っていたシーンが印象的でした。サオダットさんの作品において、言語はどのような意味を持っているのでしょうか。

 言語についてという、非常に興味深いご質問ありがとうございます。言語は非常に重要です。
 まず、『ビビ・セシャンべ』のテレビのシーンについて申し上げますと、この作品はドクメンタ’15のために作られた作品です。撮影は古都ブハラで行ったのですが、その際に、現地のゲーテ・インスティテュートによるドイツ語の授業で、シンデレラを読み上げているのを目にしました。私はこれを一つのサインのように感じ、作品の中に織り込むことにしました。このシーンを通して、ドクメンタで上映された時、現地のドイツの観客との繋がりが生まれるのではと期待したのです。
 また、どの言語で語るかということは、政治的なジェスチャーとして重要な意味を持ちます。ウズベキスタンでは、ウズベク語のほかに、南部のブハラやサマルカンドではペルシャ語が話されています。私自身はロシア語で教育を受けました。私が何かを書くときにはロシア語を用います。私にとって知的な営為を担う言語はロシア語です。また、イスラム以前にはソグド語という言語が存在していましたが、アラビア語によって駆逐されました。このように、私たちは複数の言語が存在する中で生きています。ウズベク語は、現代では家庭内で使用される私的な言葉という地位にあります。ウズベク語で書かれた書物というものも存在していましたが、現代の生活とは断絶してしまっています。私が映画でウズベク語で語るということ、それは、決してロシア語を排斥しようということではなく、ウズベク語に、知的な営為を行う言語としての力を取り戻そうとする試みなのです。

——『ビビ・セシャンべ』には動物の骨が描かれていました。骨には、西洋的な「メメント・モリ」以上の意味、例えば祈りであったり、感謝であったりが込められているように感じましたが、「骨」はサオダットさんにとってどのようなものでしょうか。
 また、サオダットさんの映画では、音がとても重要だと感じました。音についてのお考えもうかがいたいです。

 私はウズベキスタン周辺の広い地域を取材して訪ねてきました。その折に、おそらくゾロアスター教以前の異教的な名残をとどめた風習と思われるのですが、人々が飼っていた牛や馬を殺して食べた後、骨を集めてひと所に埋葬するというのを目にし、とても美しいと感じました。私たちが牛や馬の肉を食べて生きるとき、私たちは牛や馬から命をいただいているわけです。命をいただいた私たちが、命をくれた動物たちに感謝を捧げるということ。これは、命の繋がりの円環の中で、感謝を捧げるという行為です。骨はそのことを象徴的に示していると言えます。
 音は、私の映画において非常に重要な役割を果たしています。私は自分を聴覚的な人間だと思っています。創作においては、まず音が生まれてきます。音の繋がりができたとき、そこにイメージ・映像が乗ってくるのです。作曲家とともに作業をすることもあるのですが、私にとって音を作っていく過程は、創作過程の中でもとても楽しく大好きな作業です。また、映像というのは音に比べて限定的です。山を映せば「これは山だ」と直接的に物を示してしまうという限界がありますし、観客たちの感覚に直接的に働きかけます。それに対して、音の方が広がりをもち、観客たちに自分たちの感覚が湧き上がってくるような余地を残すと思います。少なくとも、私にとってはそうです。私は、映画の中で直接的に語るということをしません。それは、観客たちの中に、彼ら自身の感覚が喚起されてほしいと願っているからです。私の撮影する映像・イメージは形態を捉えているのが特徴的かと思いますが、そうしたことも関係あるかもしれません。

——サオダットさんの映画において、ムスリムの女性たちの多様な姿が描かれていることに驚きました。今日では特に欧米においてムスリムの女性たちが画一的なイメージで描かれていることについてどう思われますか。

 あなたのご質問に答えるには、私の言葉よりエドワード・サイードのインタビューを見ていただけると良いでしょう。彼は「他者」というものがどのように作り上げられているのかということを私たちに教えてくれます。
 今、イスラムの女性たちが画一的な描かれ方をしていることに、私は心を痛めています。イスラム教だって、キリスト教やあるいは仏教がそうであるように、決して均質・同質ではないのです。一口にイスラム世界といっても、さまざまな地域を訪れれば、言語も違うし、作っている料理だって違う。
 『ビビ・セシャンべ』という中央アジアのシンデレラについてお話ししましたが、今、世界で最も有名なのは、グリム兄弟が紹介したシンデレラです。グリムは、各地を訪れて、その土地に伝わる口承の物語を集め、グリム童話として再録していきました。同じように、エジプトにはエジプトの、中国には中国の、シンデレラ・ストーリーというべきものが存在するのです。世界には物語の多様なバリエーションが存在するということ。さまざまな地域を巡りながら、物語の多様性を示すことは、まるで一つの物語の中で生きているように語られる現代において、重要なことだと考えています。

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