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【第55回織田幹雄記念国際④ 山縣亮太】

注目の男子100mは山縣が小池、桐生を抑え10秒14で快勝
初めてコーチを付けた成果が現れ、国際大会活躍の必勝パターンに

 山縣亮太(セイコー)が復活への一歩を、地元広島開催の織田幹雄記念国際(4月29日)で踏み出した。男子100mは東京五輪でも決勝進出が期待される注目種目。織田記念には桐生祥秀(日本生命)、小池祐貴(住友電工)、多田修平(同)、山縣らが出場。桐生は日本人初の9秒台(9秒98)を17年に出した選手で、同学年の小池も19年のダイヤモンドリーグ・ロンドン大会で9秒98と並んだ。多田は17年世界陸上ロンドンで準決勝に進出し、今季は得意とするスタートに加え後半の強さを身につけてきた。そのメンバーの争いを制したのは、12年ロンドン五輪、16年リオ五輪でともに準決勝に進出し、ロンドン10秒07、リオ10秒05と五輪日本人最高を2大会連続でマークした山縣だった。

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●1・2位差が久しぶりに0.1秒以上開いたレース

 レース展開はまさに、山縣の勝ちパターンだった。3レーンから山縣、桐生、多田、小池と並び、スタートは多田と同じくらいだった。30~40mでは体1つリードを奪い、60~70mでは多田を1mリードした。80mを過ぎて小池が追い上げ2位に上がってきたが、山縣が余裕で逃げ切った。
「スタートから引っ張っていける展開は自分の特徴です」と、勝ちパターンに持ち込めたことは認めつつ、「ただ、スターティングブロックを出て10~20mあたりで少しもたつきました。もっともっとスタートを研く必要があります」
 山縣の優勝記録は10秒14(+0.1)で、2位の小池が10秒26。昨年トップクラスが揃った100 mの1・2位差は、10月の日本選手権は0.01秒(優勝・桐生、2位・ケンブリッジ飛鳥=Nike)、8月のゴールデングランプリは0.02秒(1位・桐生、2位・ケンブリッジ)、8月のAthlete Night Games in FUKUIは0.03秒(1位・ケンブリッジ、2位・桐生)。0.1秒以上の差がついたのは久しぶりだった。
 タイム差にまでは言及しなかったが山縣も、「2年間不調が続きましたが安心しました。地元のレースで優勝できて、久しぶりにすごくうれしいレースです」と、“久しぶり”という言葉を使った。

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●織田記念優勝→自己新&国際大会好成績のパターン

 残念ながら五輪参加標準記録の10秒05には届かなかった。桐生、小池、サニブラウン・アブデル・ハキーム(タンブルウィードTC)の3人がすでに破っている(ケンブリッジの昨年の10秒03は、コロナ禍の影響で適用期間外)。山縣は今後その記録を破らないことには東京五輪への扉は開いてくれない。
 だが4月の織田記念で10秒14まで記録を伸ばしたことで、その可能性が一気に高くなった。過去に山縣が織田記念で優勝したときのタイムとシーズンベスト、国際大会の成績は以下の通りである。
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年  優勝記録   シーズンベスト   国際大会
12年 10秒08(+2.0) 10秒07(+1.3) ロンドン五輪準決勝
16年 10秒27(-2.5) 10秒03(+0.5) リオ五輪準決勝
18年 10秒17(+1.3) 10秒00(+0.8) アジア大会銅メダル
21年 10秒14(+0.1)  ?         ?     
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 100 mの記録は風によって左右される。12年の優勝記録は今回よりも良かったが、追い風が公認範囲ぎりぎりの2.0mだった。逆に16年の10秒27は今回より遅いが、向かい風2.5mを考えると、10秒0台に相当するかもしれない。だが18年の10秒17は、追い風は今回より強かったにもかかわらず、タイムは今回より遅かった。標準記録が
 織田記念で優勝したシーズンは必ず自己新を出し、国際大会でも好成績を残している。その流れに今年も乗り始めた。標準記録の10秒05に届かなかったが、今後の突破を十二分に期待できる。
 10秒05への手応えを質問された山縣は、以下のように答えた。
「自分が思い描いていた(10秒05への)距離感で織田記念を走れたらいいな、と思っていました。もしかして遠い距離になるのかな、という不安もありましたが、決して100点ではない走りで10秒14が出ました。これから体ももっと仕上がっていくと思うので、10秒05は十分に射程圏内です」
 地元のファンと関係者が、一番待っていた言葉を山縣の口から聞くことができた。
 もう1つ、リオ五輪で活躍した16年シーズンと同じパターンになっている点がある。前年不調に苦しみ、シーズン初頭の試合も内容が良くなかったが、織田記念までの1カ月で修正した点だ。16年は東京六大学にオープン参加し、追い風1.9mという絶好の条件だったにもかかわらず10秒40だった(気温は低めだったかもしれない)。そこから1カ月で走りを大幅に見直し、織田記念の好結果に結びつけた。
 今年も3月末の宮崎のレースでは、10秒36(-0.1)でケンブリッジに0.01秒差の2位。16年の東京六大学ほど悪くはなかったが、良い動きでもなかった。良くはなかったが「トレーニングやアップのやり方など、やっていくことが明確になった」と宮崎で話した。
 織田記念レース後に、この1カ月の練習で何を重点的に行ったかを明かしてくれた。
「それまではケガのこともあって、ずっとスピードを抑え気味の練習だったのかなと思いました。どんどんスピードを出していかないといけない、という反省が1つありました。より質の高い練習を効率的に進めることが課題でした」
 宮崎のレース翌日に行われた共同取材時に16年と似ている点を質問され、次のように答えていた。
「似ているところもあります。環境的には新しいウエイトトレーニングのトレーナーの方に付いていただき、“チーム”の体制が固まったのが16年でした。今もウエイトのやり方を変えたり、練習への向き合い方をまた違ったものにしたりしています。そこは今後期待できるところです」
 昨年夏から新しい理学療法士に付き「PNF(和訳は固有受容性神経筋促通法)という施術があって、細かい筋肉と連動性を高めて体を使うリハビリ」を継続して行ってきた。
 新しいチームが固まってきた点は同じでも、取り組む内容は変わってきている。

●初めてコーチを付けて臨むシーズンに

 一番の変更は今年2月から、慶大競走部短距離アドバイザーの高野大樹氏を、コーチとしてつけ始めたことだろう。これまでもトレーナーや陸連コーチたちからアドバイスを受けてきたが、走りのコンセプトや走るメニュー、トレーニングの大枠は自身が決めてきた。
 最終的には今も山縣自身が決めているが、コーチの助言を受け容れる割合が大きくなっている。コーチを付けず、自身でとことん考え抜くのが山縣のスタイルで、だから大舞台でも自己新を出し続けられたが、19年以降はケガが続いていて苦しい状況が続いていた。18年頃のトレーニングにこだわってしまっていると、山縣自身が感じたようだ。
 高野コーチは「動きもそうですし、メニューのポイントをどこに置くかなどを話して整理し、練習の成果を一緒に確認しています」と話す。「次の1本はこういう意識でやらないと負荷が大きくなるよ」などとアドバイスをする。
 織田記念に向けての練習でも、ケガにつながる動きや状態になってきたと見て、高野コーチが練習を止めたこともあった。
「彼は色んな不安をもって競技をしている。そう感じられました。その不安が少しでもなくなるのであれば、と、対話的なコーチングをしていこうと決意しました」
 新しい“チーム”ができたことは同じでも、リオ五輪から5年が経ち、身体的にも精神的にも同じ状態ではない。そのタイミングで高野コーチのようなコーチが付いたことで、多くの部分で山縣の負担、不安が軽減された。
 2人は以前から、慶大のグラウンドで顔を合わせることが多く、色々と話し合ってきた。それでも「まだ共通の言語ができていない」(高野氏)という。そこが深まって良い方向に向かい始めれば、17、18年に好記録を連発したことも、19年以降は苦しみ続けたことも、リオ五輪以降の全てをプラスの方向に転換できるかもしれない。
 新たな“チーム”が機能し始めた。それを結果で確かめられたことが、織田記念の一番の収穫だった。

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TEXT by 寺田辰朗
写真提供:フォート・キシモト

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