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雨宮塔子のパリ通信#8 スキンシップのフランス文化を変えた新しい日常

アパルトマンの廊下で犬の鳴き声が響き渡る。ロックダウン期間のおよそ2か月の間留守にしていた階下の住人が、ロックダウン解除を受けて、地方の別宅から戻ってきたのだ。

ロックダウン直前に地方にある別荘や別宅へと出て行ったパリジャンは少なくない。今私が仮住まいをしているパリ近郊でも例外ではなくて、実際に私のアパルトマンでは5世帯いる住人のうち、我が家以外はすべてもぬけの殻となった。別宅はもちろん、故郷や実家がフランス国内にはない外国人という立場を思い知らされる一方で、隣近所に生活音などを気にせず暮らせるのは気楽でもあった。

アパルトマンの室内に再び明かりが灯り、外出証明書なしで歩けるようになったことには、ロックダウンが解除されたことを実感したけれど、まだまだロックダウン以前の日常に完全に戻ったわけではない。交通機関だけはマスクの使用と、通勤必須の人、緊要な用事で利用する人を優先するためのピーク時(午前6時半から9時半、午後4時から7時)の証明書の携帯を求められているからだ。しかもこの証明書は自ら自宅でダウンロードできた従来のものとは違い、会社発行の通勤証明書などでなければならず、違反者には135ユーロの罰金が科せられるから、私などのフリーランスの人間は午後4時までに電車に飛び乗らなければと、午後3時を過ぎるといつもハラハラしながら時計を見るようになった。

#8メトロ入り口

写真:証明書なしで乗れる時間の終了間際になると、RATP(パリ交通公団)の関係者がメトロ入り口に立ち、乗ってくる人がいないか見守っている

公共交通機関がだめならタクシーやUBERを使う手もあるけれど、今はまだ密閉された空間は避けたいから、結構な距離を歩いて帰ってきたこともある。アンヌ・イダルゴ パリ市長はロックダウン解除後もマイカー追い出し政策を徹底するようだし、いよいよ自転車を買う時がきたのかもしれない。

ロックダウン期間中に空気がきれいなったことを受けて、自転車での通勤、通学が奨励されている。新規で電動アシスト自転車を買うと首都圏の公共交通機関を運営する  Île-de-France Mobilités (イル・ド・フランス モビリテ)から補助金が購入額の50%、最高500ユーロ(約62000円)まで受けられるそうだ。去年の12月から続いた年金制度改革案に反対する交通ゼネストで自転車通勤、通学を余儀なくされた人が多くいたせいか、昨年12月1日以降購入のもので、イル・ド・フランス(パリを中心とした地域圏)在住の個人が対象とされている。新品での購入、3年間は転売禁止というのが条件だ。

また新規で購入しなくても、例えば物置きで眠っている自転車を安全に使えるよう修理に出せば、修理費のうち50ユーロまで政府が補助してくれるという。これにも公共交通機関の利用をなるべく避けさせて新型コロナの感染リスクを下げる意図が窺える。

#8自転車看板

写真:街中には自転車を奨励する掲示板が

自転車購入にかなり前向きになっていると、「でもパリは盗まれるからね」と娘が横で呟く。確かにパリでは、鍵をかけずに自転車を3分でも放置しようものなら、ほぼ100パーセント盗まれる。昨年の交通ゼネストが始まって早々、スーパーの前で友達と立ち話をしていた3分間でみごとに自転車を盗まれた弟のことを娘は言っているのだろう。私は鍵をかけ忘れることはないけれど、一定時間駐輪する際には容易に断ち切られることのない太い鎖でつないでおくのがパリでは暗黙のルールとなっている。

話がそれたが、ロックダウン以前、以降で最も変わった点といえば、やはり人との距離の取り方だろうか。

例えば歩道を歩いていて、向こうから人がくる時、10m以内に近づく前に私は車道に降りて、すれ違う際に相手との距離が近づきすぎることを避けている。10m以上前から車道に降りるのはなるべく露骨にならないようにするためだが、おそらく相手も同じことを思うのだろう、お互いほぼ同時に車道に降りてしまって、くすっと笑い合ったこともある。

#8メトロ車内

写真:人と人との距離を取るよう措置がとられているのはメトロ車内も同じ。座ってはいけない席にはシールが貼られているが、その数の多さに驚く

フランス政府が指導してきた“社会的距離戦略”が今日ここまで街中に浸透することになるとは政府自身も思い描かなかったのではないか。

もちろん意識の高さは人それぞれだけれど、この距離感はスキンシップのフランス文化を(一時的とはいえ)根底から変えたもののひとつだと思う。

解除後に再開したマルシェ(市場)でも1回の入館人数を150人に制限し、マスク着用と人との距離を1m以上取ることを課している。再開直後こそ、顔馴染みの野菜ブースの店主などはマスクに慣れないとこぼし、「はぁ~、息苦しいわ」と言ってマスクをずり下げたりしてしまっていたが、2週間経った今はだいぶ慣れたようでマスクをしたままきびきびと立ち働いていた。

#8マルシェ

写真:マルシェも再開し、1回に150人まで入館できます

公共交通機関でのマスク着用が義務となり、メトロ車両に座る乗客全員がマスクをしている光景なんて、3年前のフランス大統領選の際には想像もできなかった。マリーヌ・ル・ペン氏陣営の取材などを終えてマルセイユからパリに戻るTGV(フランスの超高速列車)の車内で、これからの中継放送に備えて喉を乾燥させないようマスクを着けた私を見て、向き合った座席のフランス人母子がお互いの顔を見合わせたのを覚えている。私が観光客でフランス語がわからないと思ったのだろう。「この人、当たり前のようにマスク着けてる」と笑いをかみ殺しながら中学生くらいの女児が母親にささやいていた。あの母子は今、どういう思いをしているのだろう。

5月11日の解除段階では、感染率に応じて各地域を緑と赤に色分けしていた。パリと4つの隣接地域はレッドゾーンに入っていて、制限の緩和はグリーンゾーンの方が進んでいたのだが、規制緩和が第2フェーズに入った6月2日以降レッドゾーンがなくなり、パリはオレンジゾーンに分類された。グリーンゾーンのカフェ、レストラン、バーや観光宿泊施設は6月2日から再開されたけれど、オレンジゾーンのパリではテラス席だけの再開だ。テラスが開放されれば、またパリらしい光景が戻ってくる。

#8テラス

写真:カフェやレストランもテラスだけ再開

先日街を歩いていたら、ある店舗の軒先から見るからに新鮮で美しい野菜が目に飛び込んできた。吸い寄せられるようにその店内に入ってみると、そこは八百屋さんではなく、バーカウンターを備えたレストランだった。

レストランが再開しているのかと店先にいたレストラン関係者らしき男性に尋ねてみると、このレストランの女性オーナーシェフはとても活動的な人なので、ロックダウン中から何かできることはないか摸索していたのだと教えてくれた。レストランはまだ開けられないけれど、生産者から直接買い付けている野菜を止めることなくここで売ることで、生産者の利益も守れるし、お客さんも喜んでくれると。

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写真:レストランのテラス再開前から店先で生産者から直接買い付けた野菜を売っていたレストラン

これまでレストラン専門に卸している生産業者が個人にも卸す方策を準備していたのは知っていたけれど、それはオンライン上の話で、こうして開店できないレストランが自らお店を開放するのは初めて目にした。レストランもテラス席は営業を再開できるようになったけれど、この女性シェフはまた違う形で彼女のバイタリティを見せてくれるような気がする。

5月31日の日曜日にはゲリラ的にテラスを開放する店を何軒か目にした。待ちに待ったように人が集まっていたけれど、人と人との距離がどうしても近くなるのが気になる。

ここのところコロナによる死者数は減っているが、6月2日からの規制緩和で感染者がまた増加に転じた場合、再びロックダウンになる可能性は充分にある。

コロナ以前に完全に戻ったわけではなくても一度取り戻した自由を再び失うのは1度目のロックダウンの時より更に辛く感じるのではないだろうか。

ワクチンか有効な治療薬が開発されるまでは「このウイルスと共存する方法を学ぶ必要がある」―。フィリップ首相が述べるまでもなく、フランス国民はウイルスと共に生きることを学んできた2か月だったし、またそれがこれからも続くことを充分に肝に銘じてもいるはずだ。経済が回復してゆくのを夢に見ながら感染拡大防止とのバランスをどう取っていくのか。自分にできることを最大限に遵守しながら見守っていきたい。



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雨宮塔子 TOKO AMEMIYA(フリーキャスター・エッセイスト)

’93年成城大学文芸学部卒業後、株式会社東京放送(現TBSテレビ)に入社。「どうぶつ奇想天外!」「チューボーですよ!」の初代アシスタントを務めるほか、情報番組やラジオ番組などでも活躍。’99年3月、6年間のアナウンサー生活を経てTBSを退社。単身、フランス・パリに渡り、フランス語、西洋美術史を学ぶ。’16年7月~’19年5月まで「NEWS23」(TBS)のキャスターを務める。同年9月拠点をパリに戻す。現在執筆活動の他、現地の情報などを発信している。趣味はアート鑑賞、映画鑑賞、散歩。2児の母。