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映画「三島由紀夫VS東大全共闘」プロダクションノート②

TBSテレビニュース部の精鋭「学生班」の遺産は五十年後に発見される。16ミリフィルム二巻、合計1時間15分20秒。そこには、死の前年の三島由紀夫と、敵対する東大全共闘の激論の模様が映し出されていた。記者というのは新しいモノを追い求めるのが本能だ。だが、その古いフィルムには、令和の時代を生きる我々に重要なことを語りかけていた。

三島の再評価につながる素材

三島が自死を遂げたとき、時の首相・佐藤栄作は「気が狂った」と漏らし、防衛庁長官だった中曽根康弘は「迷惑千万」と切り捨てた。政治家たちのこうした言葉もあって、三島事件は「天才作家による狂気のクーデター未遂」と歴史的に総括されているのだ。

私はこの討論会が行われた1969年に生まれた。小中学校の卒業アルバムの巻末にある「あなたが生まれた時代」というページには、楯の会の制服を着た三島が、自衛隊の市谷駐屯地で演説する写真が必ず掲載されていた。このため、私の頭の中には、「三島の価値は優れた文学作品にこそあり、その思想は狂気を孕んだ危険なものだ」という思い込みがあった。

だが、五十年間、倉庫で眠り続けたフィルムの中で、三島は、若者たちに生き生きと語りかけている。美しい言葉を紡いでいる。そこには「狂気」とはかけ離れた、カリスマの素顔があった。

<三島は、現代を生きる我々に何かを問いかけている。これは三島の再評価につながる素材だ->
そう確信した。

『ニュース23』でこの映像の一部を放送したのは、その二週間後のことだ。それは凄まじい反響だった。

明さん2本目①直し

事業局の映画プロデューサー・平野隆から電話があったのはニュース23のオンエアから数日後のことだ。同期入社で、数々のヒットを飛ばしてきた男だ。

「あの討論会の素材を映画にしたい」

報道素材は門外不出だ。報道目的外の使用は厳しく限定されている。平野は「演出を加えず、ありのままのドキュメンタリーで勝負をしたい」と言った。

先人たちの遺産の全容を世に出す作業が始まった。


口を開き始めた当事者たち

映画化にあたって、私と大澤祐樹がフィルムに登場する当事者たちを探し出すことになった。大澤は事業局の映画プロデューサー。ドラマの監督経験があり、直前までは報道局経済部で記者をしていたという珍しい経歴を持つ。

私たちが相談したのは、政治活動家の鈴木邦男だった。
早稲田大学時代、民族派学生として新左翼と対立し、楯の会の会員・森田必勝とは同志だった。三島と森田の自決をきっかけに立ち上げたのが、新右翼と呼ばれた「一水会」だ。

高田馬場の地下の喫茶店。映画制作の趣旨を告げると、鈴木はこう言った。

「前から考えてたんだよ。あの討論会の映像を世に出すべきだ、と思ってたんだ」

鈴木は「楯の会」の一部の会員や森田の兄らに電話を掛けはじめた。

「TBSがあの討論会を映画にしたいそうなんだ。協力してやってくれませんかね。・・・そこをなんとか頼みますよ」

元東大全共闘の前田和男を取材したのは、その翌日のことだ。前田は「全共闘のいま」をアンケート調査し、「全共闘白書」にまとめあげた人物だ。討論会を主催した元全共闘の所在を把握しているのは前田しかいなかった。
前田が我々に紹介してくれたのが、木村修だった。

明さん2本目②なおし2

あの討論会で司会進行役を務めたガクラン姿の東大生。三島の自宅に直接電話を掛け、討論会への参加を求めた男だ。

才気走った若者は、五十年の歳月を経て控えめで温厚そうな老紳士になっていた。東大を卒業した後、区役所に勤務、土木を担当したのち、定年退職していた。

明さん2本目③直し

「当時から日本人は内輪でしか議論しないところがありました。そんな社会通念をぶっ壊したかった。だから三島さんに来てもらったんです」

木村は退職後の時間を利用して、かつて敵対していたはずの三島由紀夫の文学、思想を研究し続けていた。

「世の中の三島研究本はダメですよ。分かってない」

三島論となると木村の眼に強い光が宿る。彼は、敵対していたはずの三島の魅力に取り憑かれていた。

                             ③に続く



竹内明

竹内 明

1969年生まれ。神奈川県茅ヶ崎市出身。1991年にTBS入社。社会部、ニューヨーク特派員、政治部などを経て、ニュース番組「Nスタ」キャスターなどを務めた。国際諜報戦や外交問題に関する取材を続けている。