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2020年2月の音楽(とか)のこと

至極ベタですが、読書熱の高い今は、何にも予定の無い日に近所の行きつけの喫茶店に歩いていってランチを食べて、夕方くらいまで読書しているのが毎週の楽しみになっている。「ルーブル」という名のその喫茶店の素晴らしいこと。今やルーブルの全てを肯定的にとらえってしまっている。店内の広さに対してスペースを気持ち贅沢に使った座席配置、なおかつ駅近なのにいつ行ってもすんなり座れてゆっくりできること、かと言って空き過ぎてガラガラでもないこと。いつ行っても気分的にピンと来るものがあるくらい食事のラインナップが豊富なこと、何を頼んでも「えっ、こんなに!」と思うくらい量が多くて、かつ盛り付けのルックもいい、(チキンのトマトバジル煮とか頼むと1000円くらいでチキンレッグ1本がまるまる入ってくる)、気取っていないけど丁寧な調理が分かるちょうどいい美味しさであること。何を頼んでもスープカップに入ってくるのが味噌汁なのもしみじみいいし、Wi-Fiは飛んでるわ、分煙も丁寧にされていて僕は非喫煙者ですが快適に共存できるのもいいし、夜も遅くまでやっていてその気になればお酒飲み始められるのも最高だし、終いにはいつ行っても店のキャパに対してホールのスタッフ数が僕の感覚で2人くらい多いことにも、あー労働環境もいいんだろうなと勝手に関心して微笑ましくなってしまうくらいの溺愛ぶりなのです。

そんなルーブルの環境が手伝ってぐいぐい読み進めた中でも心に残っているのはヘルマン・ヘッセの「Demian」。この年になって初めて読みましたが、怖くなるほどおもしろくてこれからも都度思い出す指標のような1冊になりそうだ。幼少-少年期をメインに書いたものではベストではないか。

「連帯はすばらしいさ」デーミアンは言った。「いま、ほうぼうでもてはやされているのは連帯でもなんでもないけどね。連帯はひとりひとりが互いに知り合うところから誕生するものだ。世界の改革に資する場合だってある。いま巷に見られる連帯とやらはどうだい。烏合の衆だ。お互い恐いものだから逃げまどって、似た者同士で固まっているのさ。お偉い方はお偉い方だけで、労働者は労働者だけで、学者は学者だけで。それじゃ、どうして連中は不安なんだろう? 自分自身とひとつになれないからさ。自分をあるがままに認めることがないから不安なんだ。自分のなかの未知の部分を恐がる連中ばかりの共同体なのさ。連中はみな、自分たちの決まり事が通用しなくなっていると薄々気づいている。自分たちの生き方が時代おくれだということもね。そして宗教も道徳もぼくらがいま必要としていることに答えられず役に立たないということも。百年以上にわたって、ヨーロッパは研究と工場建設に血道を上げてきた。火薬が何グラムあれば、人ひとり殺せるかちゃんと知っているのに、神に祈る術を知らない。どうやったら満ち足りた一時が過ごせるかわかっていないんだ。さっきの学生酒場を見たまえ。あるいは金持ち連中が通う社交場でもいい。救いようがない。—シンクレア、このままではろくなことにならない。怯えて固まっている連中は不安な気持ちでいっぱいだ。悪意に満ちている。だれも他人を信用しない。もはや存在しないしない理想にかじりつき、新しい理想を掲げる者を石で打つ。あちこちで対立が起きているのを感じる。もうじき衝突する。本当だ、そう遠い将来じゃない。もちろん、そんな衝突で世の中が "改善" されるわけがない。労働者が工場経営者をなぐり殺そうと、ロシアとドイツが撃ち合いを始めようと、主が入れ替わるだけのことさ。だけど、それも無駄じゃないかもね。今日の理想のくだらなさが証明されるだろう。石器時代の神々が一掃されるだろう。いまあるこの世界は死のうとしている。滅びようとしているんだ。そして事実そうなるだろう。」

文章そのものの持つ圧倒的な美しさと、100年前に書かれた文章が今なおリアリティーを持ち続けていて、それどころか今こそを描写しているのではないかと錯覚してしまう筆致への感動と途方もない恐怖。

ヘッセはダミーのペンネーム、さらにデーミアンと2段階のマスクを身に着けてさらに書く。

「まだ宣戦布告はされていない。だけど戦争になる。本当だ。心配をかけたくなかったから言わなかったけど、あのときから新しい徴候を三度見たんだ。世界の没落でも、地震でも、革命でもない。戦争になる。どういう騒ぎになるか、見てみるがいい。世の人たちは歓喜するだろうな。みんな、早く始まらないかとうずうずしているくらいだ。いまの暮らしに飽き飽きしているのさ。—でもね、シンクレア、まだ序の口だ。たぶん大きな戦争になる。とっても大きな戦争だ。それでもまだ始まりでしかない。新時代の幕開けだ。新時代は、旧時代にすがっている連中には恐ろしいものになるだろう。きみはどうする?」

デーミアンとごくごく近い「きみはどうする」を現代の日本で問いかけ続けるのがROTH BART BARONの三船雅也ではないか。いつの時代もあらゆる表現で大きなものに立ち向かう表現達を頼もしく思う。


それからもう一冊がアメリカの作家ニコルソン・ベイカーが1992年に発表した「もしもし」。全編一組の見知らぬ男女のテレフォンセックスによって成り立つ会話劇だ。こちらもとびっきりを引用させてほしい。

「彼の好きな曲は全部、全部とまではいかなくてもほとんどがフェイドアウトする曲だった。おかげでわたしはフェイドアウトの権威になったわ。テープをいっぱい買いこんで。わたしがよくやったのは、ヘッドフォンでボリュームをうんと上げて、じっと意識を集中させて、録音スタジオの人がボリュームのつまみを下げはじめた瞬間を見きわめるっていう遊び。ときには、その人が — つまりレコード・プロデューサーの見えない手が — ボリュームを下げるのと同じ速度でボリュームを上げていって、音の大きさをずっと一定に保つっていう遊びもした。そうすると、ちょうどあなたがじゅうたんに頭をこすりつけるときのように、一種の恍惚状態におちいるの。このままずっとボリュームを上げつづけていけば — すごく強力なアンプなのよ、これが — この曲はいつまでも終わらないかもしれない、永遠に続いていくかもしれない、そんな気がして。以前はフェイドアウトなんて馬鹿にしていた。 "そうさ、俺たちは果てしなくクリエイティブな仲間たちで、一晩じゅうこうして演奏しているのさ、なのに悪いプロデューサーの奴が、この最高にゴキゲンな曲だけでアルバムがまるまる一枚埋まってしまわないように、ボリュームを下げてしまったのさ" 的な感じを出すための、お手軽な表現方法だと思ってた。それが今では、何て言うか、希望を凝縮したエッセンスのように思えてきた。 —」

さんざん詩的で、文学的にセクシーな猥談を積み重ねた上で終盤の入り口的な位置に置かれた次の文章に、一つこの小説の本領が発揮されているように思う。

「 — 大陸のあちこちに、たくさんの小さな光の点がちかちかとまたたいていて、その一つひとつが女性のオーガズムを表しているんだ。これだけの数の女性がいちどきにオーガズムに達しているのを見ていると、 "同時にオーガズムを迎える" というのは、本当はこういうのを言うんじゃないかと思えてくる。もしかすると本を読みながらイッている女性の光は、何かを空想しながらイッたり、夢の中でイッている女性のそれよりも、ほんの少し赤外線寄りの色あいをしているかもしれない。ぼくにはその一人ひとりが見えている。今日ぼくのピザにアンチョビをのせてくれたピザ屋の店員がいる。タイツをプレゼントしようとした同僚のジルがいる。髪が汚れて前歯が一本欠けた、農家の太ったおばさんがいる、けれども彼女は唇を閉じてその欠けた部分を隠そうともしていない、そんなことに構っていられないくらいに気持ちがいいし、気にしなければいけない人の目もないから彼女は美しいんだ。高速の料金所でチケットを渡してくれる女性もいるし、ブレア・ブラウンもいる、エリザベス・マクガヴァンも、ジョン・ヒューズの映画に出てくる女優、何て名前だったかな、あのおちょぼ口がかわいい女の子、それからジーン・カークパトリックもいるし、ポルノ女優たちもいて、ただし演技ではなくて本当にイッている、ケイシャがいる、クリスティ・キャニオンがいる — それがみんな光の点になって、きらきらと輝いている。ひょっとするとぼくの乗っているのは人工衛星ではなくて、大きくて黒いスパイ機かもしれないな。そして、やや、何たる偶然か、きみも空を飛んでいて、ぼくの大きなファン・ジェットめがけて飛び込んでくる」

最後は電話を切って終わるんですが、僕はそこでちょっと泣きました。


音楽について、先月末からGEZANの新作をずっと聴いています。普段僕が熱心に聴くような系統ではないかもしれないけど、そんなことをすっ飛ばすくらい抜群にかっこいい。アルバム一枚かけて丁寧に育て上げたダビーなグルーブが実を結ぶ「東京」の美しさ。数十年経っても2020年はGEZAN「狂(KLUE)」があったと、たくさんの人が思い出す、市井の人々に寄り添って共に闘ってくれるような作品だと思います。

GEZANフロントマンのマヒトゥ・ザ・ピーポーも参加する寺尾紗穂の新作「北へ向かう」は「狂(KLUE)」とコインの裏表のような双璧を成すような作品と思う。今作は特に八百万の神というか、何か大きな存在を従えているような、神聖で言葉にし難いパワーを録音することに成功しているような気がする。以前、彼女のエッセイ集「彗星の孤独」のなかのわらべ歌のライブだったかな、特別な "見える人" には演奏する寺尾さんの周りにとんでもない量のあれこれが見えたというような話があったのを思い出す。今年中、はたまたそれよりもっとかけて分かっていく、発見していく大切な作品になりそうで本当にうれしいです。

待望中の待望だったMoses Sumneyはそれこそこれまでの彼の持ち味だった "神聖" な部分がちょっと後退してしまった気がして残念に思う。もちろん今回は今回でとびきりいい曲ばかりなのは前提として。

他はこんな感じ。松木美定さんも素晴らしかったな。「実意の行進」理想的なポップスです。ayU Tokioとか聴きたい気分のときに一緒に聴きたい。


今月のレコードは峰厚介クインテット「DAGURI」です。日本のサックス奏者としては相当著名な人らしいですが、今回下北のELLAで初めて知りました。You Tubeには石若俊とのセッション動画があることも後々知る。僕の知っている範囲だとカマシ・ワシントンばりの熱いスピリチュアル・ジャズで最高です。


ROTH BART BARONのプラネタリウムライブのビデオが半年越しの配信開始。本当に本当に本当にすごいので全員見てほしい。(実際は映像のさらに20倍くらいすごいかったです。) 選曲もいい。超プラネタリウム向き&音源化されていない&演出が神がかってる「Spark」も入っています。


2月はceroと土井玄臣のライブに行った。ceroは角銅真実さんが臨時休業だった。彼女のパーカッションはめちゃくちゃ好きだし、もちろんあった方がいいという大前提を先に提示しておいてから言うと、久しぶりに打楽器が一人のceroをみて、普段よりよく聴こえる光永さんのドラムのすごさを再認識して、感嘆する夜だった。新曲「Fdf」への繋ぎが至高だった「Poly Life Multi Soul」、「Waters」、「ロープウェイ」あたりがハイライトだろうか。アンコールの最後が一番好きな「FALLIN'」といいところもたくさんあったが、2ndアルバムから5曲選曲されたセットリストは正直あまり気分じゃないなーとも思わなくなかった。「Fdf」に続く新曲が2,3曲準備されているのでは?とまで妄想していた。期待のしすぎでした。

先週初めてライブを観ることができた土井玄臣さんは色々な面でこれからも心に残る体験となりそうだ。

阿佐ヶ谷の商店街の2階、小さなカフェ/ バーTABASAの窓の外に見える景色もお気に入りでした。

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ちょっと観に行けていない間に見たい映画はたまるばかりです。唯一観たものだと「ジョジョ・ラビット」が素晴らしくて感激する。衣装、美術がこんなにも素晴らしいと思う映画なかなかないです。

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この映画のラストシーンみたいに、広々した空の下、思わずダンスを踊りたくなる瞬間が多くの人にたくさん訪れるような2020年、これからになればいいっすね。

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