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アイデンティティ(自己と努力)

 教育学部の授業で、「アイデンティティ」について学んでいます。自分についてのレポートを書かないといけなくて、講義資料の復習をしていますが、自分について考えると、胸を張れるような経験が何もないように感じます。
 例えばスポーツ少年だったら、大会で点を取ったり入賞したりすれば、大人になってもその感動と努力した月日は残って、将来のどこかで自分の支えとなるものだと思います。文化部も同じように大会へ向けてソロやチームで努力した経験は必ず助けになります。
 僕の過去はというと、自分で振り返るだけではそういった感動や努力は何も残っていないのです。小学生の時はスポーツはやっておらず、勉強も本腰入れずとも80点90点取れたから「分かった!できるようになった!」という感動はなく、音楽や図工などの実技も特別できないこともなく、「the高水準のおとなしいboy」(小学生の頃だから高水準なんて言えるんです)の小学生でした。この6年間、努力とは無縁だったと思います。いじめのような逆境もなく、どうしても苦手なこと、嫌いな食べ物もなく、友達に誘われて入った金管バンドは一年足らずで辞めました。(たらればを言うのは簡単です、いつだって人生は起きてから後悔するしかない。)
 進学して初めてぶつかった壁は部活のソフトテニスです。自慢じゃないですが、中学3年間のソフトテニスと、高校1年間の公式テニスの公式戦で、ファーストサーブ(上からのカッコいいやつ)が入った記憶がないです。笑 もちろんサーブ練習はするし、たまに入るけど、分析反省のPDCAがさっぱりなかったんです。なのでいつまでも運ゲーのサーブを打ってました。親も「結果は出なくても怪我さえしなければ上等」という姿勢だったので、大会に向けて勝ちにこだわる練習は1つもしませんでした。中学の勉強はというと、こちらも大して順位が低いこともなく、なあなあにやればそれなりの得点は出たので、こちらも努力という努力はしなくて済んでました。
 そして高校受験も人並みに苦しくない程度の勉強で入学し、僕は地獄を見ました。まず授業の内容が4月からついていけない。そして一度に進む量相応の予習と復習。部活で疲れた身体で家にあるのはゲームや漫画の誘惑。1年の時からつまづいたと今でもやはり思います。努力を知らないなりに最低限の課題はこなすも、テストには対応しきれず、中間の物理で赤点(平均の半分という有名な点数名ですね)を喫しました。この時にこのままじゃいけないと奮い立たせて、勉強への努力値を高められたらよかったのですが、僕は努力しないでも高水準だったので、口だけ反省が異常な発達を遂げていました。「次から頑張りたい。」「ここが良くなかった。」など、自分の弱いところの評価はできるのですが(授業の振り返りなどを埋めるために必要な記述力でした。)、それをできるようにする努力の仕方を知らないか、故意にやらないで成長してきました。高校ではできないことが多く目につき、反省も過去に比べ増えていましたが、具体的にどう改善するかを考えようともせず、流されるまま過ごしてしまいました。大学受験でも、やはり県外に出て行った様な人に比べたら、遊んでたと言わんばかりの勉強量でした。鹿大に来れたのは高校の尻叩きの強さと、本番の割合と、鹿大のニ次試験の教科が得意を選択出来たことによるラッキーだったと思います。
 大学に入ってからはとにかくレポートは期限内に出し、テストも単位に届く様にある程度は前日に復習し、努力したと言えることもなく今日までやってきた次第です。本当に情けや運や、周りの人の助けに縋りっぱなしで生きてきたと感じます。
 サークルには努力の天才と自称する憧れの先輩がいて、涙の努力をして医学部に来た才色兼備の同期もいて、努力の世界から逃げてきた僕には劣等感しか残らない日々です。努力した周囲と比較される被害妄想に悩まされることはザラにあります。
 個人で買ったコミュニケーションの本には、努力を感じる人は周囲から高い評価を得ると書いてあり、トドメのスマッシュが炸裂しました。自分も医学部や難関大というネームバリューには弱いので納得です。
 このレポート課題とnoteに書き綴ることで自分をよくよく反省できるといいなと思います。これそのままレポートに書けないかな笑
 未来は努力しないことに後悔しない自分でいたいと思います。今できないことを将来できるように。

おわり

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