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2020年末に考える、在宅医療と病院医療

2022年4月1日に書く序章

これは、2020年12月、新型コロナウイルス感染症(以下、COVID-19)第2波が日本の社会を不安に陥れている世情の中で書きました。今は2022年4月1日です。今、第6波がピークが超えながらも、だらだらとそのしっぽを引きずっている感じです。

 皆が、COVID-19と共にある生活に慣れてしまいました。COVID-19という具体的な脅威は克服したような私たちですが、「コロナは終わるのか?終わった後の社会はどうなるのか?」。今は敵がはっきりとしない、もやもやとした不安が私の気持ちを暗くしています。この不安から次に進みたい。その思いで、未来に希望を見つけるために、「新型コロナ感染拡大の初期にコロナに対応していた医師がなにを考えていたのか」、その記録を残しておこうと思いました。今、読み直しますと、ちょっと言いすぎかな?と思うところもあります。しかし、このときの気持ちは、2022年の今の私の考えと変わっていません。さらにいうと、このときの感情が、今の私の取り組み(2021年8月に新型コロナ専門病棟オープンした)のきっかけとなっているのだな、と気づきました。そして、COVID-19の恐怖の中で、必死に光を探している自分の姿を見つけることができました。2022年の皆様のお役に少しでもたてれば、嬉しいです。

COVID-19感染拡大の衝撃と、日本の医療の変化

2020年が、もうすぐ終えそうです。2020年の医療界は、COVID-19対応で一年間が終わってしまった感があります。医療の現場で働いていますと、日本の医療はこれで変わってしまうな、と肌で感じています。

異変の始まりは2020年3月からでした。COVID-19感染が大きな問題となって、テレビのワイドショーで新型コロナウイルスの報道が花盛りだった頃、病院に異変が起きました。患者さんが病院に全く来ないのです。病院に行くと、コロナの患者さんから病気を感染させられるという恐怖が、世間を渦巻いた結果でした。これは、COVID-19という未知のウイルスによる社会的パニック状態であったと、今、思います。有名な俳優さんのコロナによる感染死が報道されると、小豆畑病院の外来患者さんの数は昨年度の30%程度まで減少しました。外来受診の患者さんが減少すれば、入院する患者さんの数も減少します。一時期、私たちの病院の全活動は、例年の1/3程度になった印象でした。

続いては、小豆畑病院が茨城県の委嘱でCOVID-19のPCR検査を行う「地域・外来検査センター」を開設した6月です。私たちは、COVID-19感染の恐れのある患者さんを、一般の患者さんと完全に分けるために、病院敷地内にプレハブを建てて、診療を始めました。感染予防の必要性からトイレも別に作り、プレハブ内に電気と水道を引いて、そして患者さんのプライバシーの問題からプレハブの全周を壁で囲った建物です。これは、現在、考えられる最善の感染予防対策です。しかし、この建物が地域住民の不安をあおりました。病院の駐車場に突如異様な建物ができて、そこで感染予防着に身を包んだ医療従事者がなんかゴソゴソやっている、という噂が立ったのです。SNSで私や病院を中傷・批判する文章が流されました。それを見つけるたびに、サイトの管理者にお願いして消去してもらう、そんなことの繰り返しでした。COVID-19に関わる診療をしている医療機関が誹謗中傷の標的になっていることは、すでに問題になっていることを、私たちは知っていました。私たちは、県や医師会からの「地域外来・検査センター」を開設してほしいという要望に対し、何度も何度も院内で相談し、火中の栗を拾う覚悟でこの仕事を引き受けたのです。この、SNSで心ないことを言われるという現象、覚悟はしていても、やはり、心理的に追い詰められるものですね。「地域住民のために頑張ってくれてありがとう」とみんなの前で感謝されると同時に、その裏で、匿名の投稿者から、SNS上で自分や仲間が黴菌(ばいきん)のように中傷される。人間の悲しい二面性が暴露されるようでした。あー、これが、非常時の医療なんだなと、思い知らされました。市民にとって、医療とは、あるときはありがたいものであるが、それは常ではないということ。状況が変われば、“地域住民のために”と行われている医療でさえ、市民の排斥の対象になることを肌で感じました。

そして、2020年の後半、今は12月ですが、COVID-19に対するパニックは落ち着いたように感じます。新規感染者数は、最高記録を更新し続けているにもかかわらず、です。連日、新型コロナ感染患者が増えることが慢性的に公表されるなか、患者さんの病院に対する感情にも変化が現れてきました。COVID-19に対して、保健所や医療機関からPCR検査依頼をうける「地域外来・検査センター」に加えて、小豆畑病院で発熱者外来(COVID-19やインフルエンザなどの各種検査を行う医療機関である「診療・検査医療機関」として、県に認定されました)を行うことを10月に公表しましたが、それに対して、もう、人々はなにも言いませんでした。良いとも悪いとも言わないのです。新規患者が増え続けることも、近くの病院がCOVID-19診療を行うことも、もう、日常になっているようです。お天気の話みたいに話題にはあげますが、自分の世界の話ではないみたいです(→参考・注釈)。日本社会は、COVID-19に対して、パニックから麻痺状態へ移行したのだと思います。パニックと麻痺、どちらが危険なのか、私にはわかりませんが、どちらも健全な状態でないことは確かです。
 同時期に病院に対する患者さんの感情に変化が現れました。COVID-19感染の収束が見えない中で、患者さんが病院へ入院することを嫌う、新たな傾向の出現です。変化の理由は、COVID-19感染第3波に見舞われている12月現在、日本中の病院で患者さんの面会が困難になっているからだと思います。COVID-19が院内感染を起こすことを懸念して、非常に厳しい面会制限がしかれています。私の病院でも、現在、入院患者さんに面会できるのは茨城県在住の2等親までとしています。同時に面会できるのは2名までとし、時間も15分と限定しています。それを補うために、web面会を導入していますが、面会がwebというのは味気ないものです。面会制限はCOVID-19の感染状況次第で適時変更しているのですが、患者さんや家族から見れば、入院すると全然面会ができないという印象が急に広がってしまっています。そのため、入院より、在宅医療を選択する人が急に増えている気がします。実際に、小豆畑病院の急性期病棟の利用率は昨年まで90%弱程度でしたが、2020年6月には50%まで落ち込みました。少しずつ改善しましたが、10月から12月現在では75%程度の低い状態で停滞が続いています。これ以上改善する兆候が認められません。病院長の私は、病院のあり方を変えないと、継続は難しくなりそうだと頭を抱えています。一方で、それと反比例するように、在宅医療を希望される方が前年の1.5倍程度まで増えており、12月現在、増加傾向はさらに拍車がかかっています。今までであれば決して在宅医療を選択しなかったような医療必要度の高い方々が、入院ではなく、在宅医療を希望されるようになってきました。医療側は、それに対応するために一所懸命です。小豆畑病院の在宅医療グループも、訪問診療の希望者の増加、在宅での高度医療の要求、これらに対応するために、新しい態勢作りが必要となってきています。しかも、その変化のスピードが今までにないほど速いので、対応が追いついていないのが現状です。
 一度、この「病院離れ・在宅指向」の傾向が進むと、COVID-19感染が落ち着いても、在宅でも大丈夫じゃないか、というイメージが定着するでしょう。元々、病院医療から在宅医療への変換を進めている政府は、この傾向に便乗して、さらなる病院縮小・在宅拡充政策を進めていくものと考えます。実際に、COVID-19に医療界全体が襲われている2020年10月、厚生労働省は、病院が病床を国に返還すれば、ベッド1床あたり100万円―200万円の給付金を支給する政策を打ち出しました。

新たな病床機能の再編支援について 厚生労働省医制局地域医療計画課 令和2年10月9日:https://www.mhlw.go.jp/content/10800000/000683711.pdf

しかも、この給付金は課税対象にならないという大盤振る舞いです。

病床機能再編支援事業の実施に関するQ&Aについて 厚生労働省医制局地域医療計画課 令和2年11月26日:https://www.ajha.or.jp/topics/admininfo/pdf/2020/201208_1.pdf

小豆畑病院は東日本大震災に被災し、建物半壊の被害を受けた老人保健施設を再建するために、国に難しい申請をして補助金をいただいた経験があります。本当に苦しい時代でしたので、あの補助金はありがたかった。ところが、その補助金に対してしっかりと税金を徴収され、国とは酷いものだなぁとほぞを噛んだ経験があります。東日本大震災の補助金には課税しても、この「病床削減に対する交付金」には課税をしない。ここにも、厚生労働省のやる気の程が見えます。私は、この政策を、COVID-19で医療機関が経済的に苦しんでいるこのときにやるのか、と、いささか驚きました。しかし、すぐに、病床削減がなかなか進まないことに業を煮やしている厚生労働省の怜悧な役人が考えそうなことだな、とも、感じました。コロナ危機で病院離れが進んで病床利用率が下がり、病院は経営が苦しくなっている。このとき、ベッドを手放せばお金をあげますよと誘いをかければ、苦しくてベッド返納に応じるだろう。コロナ危機の今がチャンスだ、ということです。一度返納した病床は、決して、還ってくることはありません。これを、「今般のコロナウイルス感染症への対応により顕在化した地域医療の課題への対応」として行う、とシラッと言える厚労官僚の冷たさと狡猾さに、不快感を禁じ得ません。
 いずれにしても、良いとか悪いとかの問題ではなく、コロナの第一次パニックが落ち着いてから生じてきたこの変化(病院離れ・在宅指向)は、政府の後押しもある以上、一過性ではなく、これからも続くと思われます。私は、これは日本の医療が変わった瞬間であると感じています。

2020年に起こった、私の周りの医療界の変化についてお話ししました。
医療者は、今、毎日の対応で精一杯です。しかし、それでもここで立ち止まって、立ち考えなくてはいけないないことがあると思います。それは、このうねる津波のように押し寄せる医療の変化に、どのように対応していくかという現実問題です。医療必要度が高い患者さんを在宅医療で対応するとなると、「在宅医療における、患者急変の救急対応の問題」は、拡大し、内容も複雑化・高度化してくることは必須です。この問題に対応するためには、在宅医療と病院医療を結び付けて考えていく以外に方法はないと私は考え始めています。

COVID-19に対する日本政府の政策を考える

今、2020年が終わろうとしています。先日、東京都のCOVID-19新規陽性患者数が初めて1300人を超えました。900人代からいきなり1300人代を超えてきたのです。第1波の時期であれば、きっと、市民も政府も大騒ぎしたでしょう。しかし、年の瀬と言うこともあるかもしれませんが、あまり、深刻に語られていない印象です。少し前に、今更の感もあるのですが、政府(内閣支持率が急速低下したためかどうかはわかりませんが)は、GO TO トラベルキャンペーンを全面中止しました。それなのに、一年延期された東京オリンピック・パラリンピックは行うと強硬な姿勢を崩しません。その理由を、COVID-19に対するワクチンが開発されたことに根拠を求めています。確かに、イギリスとアメリカで認可され、医療関係者や高齢者を対象に接種が始まっています。来年の3月には、日本でも認可される見込みです。感染拡大が止まらないことが大統領選挙にも影響を与えた米国では、早々にCOVID-19ワクチンの使用が承認されました。承認作業も異例の早さです。しかし、世界の歴史上最速で造られた新型ワクチンには、副作用の懸念が払拭できていないのも事実です。米国国民の40%が、副作用を恐れてワクチンを接種したくないと意思表示しているとのアンケート調査が報告されて、波紋を呼びました。また、ある種のCOVID-19変異株には、現在作成されたワクチンは効果がない可能性が報告されています。このワクチンが順調に接種されたとしても、国民が集団免疫を獲得してCOVID-19感染拡大が止まるまでには、2-3年の時間が必要だと試算する専門家がいます。ワクチンがCOVID-19の被害を収めてくれる特効薬になるという見解は、あまりに楽観的すぎると思います。楽観的と言うよりも、考えることから逃げている気がします。これだけを見ても、日本の政治家のご都合主義が見え隠れして、その政治生命をかけて、この国家的危機に立ち向かっているようには到底思えません。

日本政府は、先の見えないCOVID-19対策のために、普段では考えられない、ばらまきと言えるような国家財源の使い方をしています。2020年、日本政府は、医療機関に様々な経済支援を行いました。しかし、そのやり方は対象が無差別で、本当の意味でCOVID-19診療を行って疲弊している医療機関を助ける、というものではありませんでした。私には、医療機関を支えますよというパフォーマンスとしか思えません。小豆畑病院もこの支援を受けました。しかし、COVID-19感染拡大から受けた経済的ダメージは、到底、この経済支援でまかなえるものではありません。このCOVID-19による医療危機は、そんな一時的な対応で乗り切れるものではないということは誰の目にも明らかです。一病院の院長として、病院のあり方自体を変えていかなければいけない、そんなぎりぎりの局面に来ていると危機感を募らせています。

日本政府は医療機関への経済支援と同時に、コロナ不況に陥ることを恐れて金融緩和政策をとっています。そのため、株価が1990年代のバブル期に近づく勢いで上昇している、と、2020年を締めくくるニュースが今年のトピックスとして話していました。医療機関が疲弊し、飲食店が開店自粛で続けられるかどうかの瀬戸際にあり、人々の心の中に年末だというのに来年の希望が見えない中で、自殺者の増加も指摘されています。日本のGDPが28%も低下していたことが報告されています(2020年4-6月期の報告)。これは、戦後最大の低下です。その一方で、国の誘導で株価だけが上昇し、目先の利いた投資家達が利益をどんどん計上している。これが、正しい国家的危機への対処法なのでしょうか?なんか、間違っていると思いませんか?私は医療のことしかわからないので、これ以上、経済のことを話すことはできません。しかし、国の場当たり的な対策が、このような怪奇現象を引き起こしていると思わざるを得ません。日本人の政治不信は、戦後数十年間、解消されることがありませんでした。しかし、今までの不信感は、消極的不信であったと思います。「どうせ、何も変わらないから」、という諦めです。しかし、このねじ曲がった日本の社会状況が続けば、日本国民の感情は、政府に対して“諦め”から“拒絶”に変わっていくと思います。医療機関への経済支援もそうは続かないでしょう。医療保険の維持の危機が指摘されています。そうなれば、COVID-19の院内感染が原因ではなく、経済的理由から医療機関が破綻する時代が来るかもしれません。コロナバブルで経済的格差が拡大し、日本が誇る医療体制も崩れるかもしれない。もし、そんな社会になってしまったら、日本の社会のどこに希望を見いだせるのでしょうか? 私は経済のことはわかりません。しかし、医療者として、なんとか、日本の医療だけは守らなくてはいけない、そのためには、声を上げるだけではなく、自らが行動を起こさなくてはいけないのかな、とも感じています。

2020年末に考える、日本在宅救急医学会の意味

一年前には考えていなかったことですが、COVID-19感染拡大は、診療所や病院に、その在り方の変革を急速に、しかも厳しく、求めています。それは、お上からのお達しではなく、「変革できなければ、生き残れないぞ」という、ぎりぎりの、切羽詰まった社会的要求です。私は病院を経営していて、息苦しいような危機感を、2020年の一年間、抱き続けてきました。しかし、あまり、そういうことが公の場で話されていません。これは、危ないな、と感じます。医療機関が立ちゆかなくなるかもしれないという話は、社会に不安を煽ると危惧している人がいて、躊躇されているのかもしれません。しかし、「政治の間違いは、本当のことを言わなかったことから始まる」というのは、日本が、20世紀において、中国進出から満州事変、そして太平洋戦争へと進んでしまった歴史から、我々日本人は痛いほど学んでいるはずです。政治家にとってどんなに都合の悪いことであっても、この危機的状況にあっては、きちんと問題を公に提示し、それに関わる職種のしかるべき代表が、今から真剣に考えていくべきだと思います。
 私は、日本在宅救急医学会にはこの問題を解決する可能性があるのではないかと、かすかな光を感じています。なぜなら、この学会が、日本の医療の矛盾を解消するために結成された学会であるという、その出自に望みを感じるのです。在宅や病院という医療体制の枠、医師や看護師やMSW、ケアマネジャーといった職域の枠、そういう様々な枠を超えることで、医療界の矛盾の解決策を考える場所が初めてできるのだと思います。日本在宅救急医学会は結成されたばかりで、まだ、社会に影響を与えるような成果はなにも生み出せていませんが、その可能性を有する類い希な学会だと思うのです。

医療は変わらなくてはいけない。それが、お題目としてではなく、切羽詰まった社会問題として、急に立ち上がってくる時代が、突如到来してしまいました。そして、私はふと、思うのです。この学会の設立の趣意である“本当の良き医療”とは、この危機的時代が求めている医療のことではないのか、と。


(注釈)新規患者が増え続けることも、近くの病院がCOVID-19診療を行うことも、もう、日常になっているようです。お天気の話みたいに話題にはあげますが、自分の世界の話ではないみたいです。

日本人にはこのような特質があることを見抜いていていた人がいます。坂口安吾(1906-1955)という、戦後文学の騎手として活躍した文学者です。この人は、私が中学から高校時代に、彼の書いた本を何百回も読んだ、そんな、私にとって大切な人です。坂口安吾は、「この日本人の性質は一見軽薄に見えて、実は日本人の強みなのだ」と言っているのだと思います。私は本文の中で、この態度は健全ではないと書きましたが、間違いかもしれません。こういう風に危機に対して不感症になること(私には痴呆状態にも感じられます)で、日本人は本当の危機(国家的危機も個人的危機も)を、精神を病むことなく乗り越えてきたのかもしれません。以下に坂口安吾の文章を抜粋します。

日本人は探偵小説に於けるアメリカの被害者達とは全く類を異にしている。日本人は概してユーモアに乏しく、又之を好まぬ傾向があるが、実は根底的に楽天的な国民で、日本人がシンから悲観し打ちのめされるなどということは殆どあり得ぬ。
 私の隣組は爆弾焼夷弾雨霰とも称すべき数回の洗礼を受けたのであるが、幼児をかかえた一人の若い奥さんが口をすべらして、敵機の来ない日は淋しいわ、と言ったという。私は之をきいて腹をかかえて笑ってしまったが、全く日本人は外面大いにつらそうな顔をして毎日敵機が来て困りますなどと言っているが、案外内心は各々この程度の野次馬根性を持っているのではないかと思った。
 焼けだされた当座はとにかくやがて壕生活も板につけば忽ち悠々たる日常性を取り戻してしまう。爆撃中は縮みあがるが、喉元すぎれば忽ち忘れる。私の隣組には幼児や老人達もたくさんいるが、物資の不足という一点をのぞけば爆撃に対しては不感症の如く洒洒(しゃあしゃあ)としている。

(中略)

 日本の都市は建築物に関する限り欧州と比較にならぬ爆撃被害を蒙るけれども、国民の楽天性はとてもアメリカの爆弾だけでは手に負えまい。私は焼跡の中からそれを痛感し、アメリカの探偵小説の要領ではこの楽天性を刺殺できまいということを微笑みとともに痛感しているのである。

「坂口安吾著 予告殺人事件」

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