見出し画像

吉本興業・大﨑洋会長はビンス・マクマホン・シニアである

明日、5/8発売の『週刊現代』(講談社)で、〈吉本興業会長・大﨑洋会長が語る「新型コロナが芸能界に突きつけたもの」〉が掲載されています。これは週刊現代で連載していた「ザ・芸能界 テレビが映さない真実」の特別版になります。
大﨑さんに、新型コロナと芸能界、『闇営業騒動』、吉本興業の将来について三時間近く話を聞きました。4ページでは収まらない内容でした。この記事の理解のために、2019年8月に『メルマ旬報』で配信した原稿を公開します。
一連の『闇営業』騒動の際、「NEWSPICKS」で取材を受けた「【解説】吉本興業に君臨する「大崎洋」とは何者か」を加筆、再構成したものです。

※   ※   ※
ぼくは『AERA』(2018年1月1、8日号)の『現代の肖像』で大﨑洋さんを執筆する際、延べ十時間以上インタビューしました(その後も細々と付き合いは続いています)。その他、『全身芸人』で月亭可朝さんたち、あるいは普段からこの『メルマ旬報』主宰の水道橋博士、あるいは、コラアゲンはいごうまん(元吉本興業)などとも付き合いがあります。芸人という〝生き物〟の肌感覚というのは、それなりに理解しているつもりです。
そんなぼくが今回の事件についてまず思ったのは、「芸人」をどう捉えるかによって、見え方が変わってくるということ。
一連の報道を全て追っているわけではないのですが、しばしば「これが普通の会社ならば大問題だ」という主旨の発言をいくつか目にしました。しかし、ぼくは吉本興業に対して一般的な企業の論理を当てはめるのに、違和感を抱いています。
例えば、弁護士や労務の専門家は、芸人をサラリーマンや一般的な個人事業主と同じように扱うべきだと主張しています。
法的に、芸人は個人事業主なのでしょう。ただ、仕事の本質、個人の背景が他の個人事業主とは少々違う。
『全身芸人』の〈プロローグ〉でぼくはこう書きました。

〈本来、芸人とは日常生活の埒外に棲息する人間たちだ〉
〈勘の良い観客は、家族や会社、組織に縛られない芸人の怖さを感じ取っているものだ
自らの足元は安全な場所に置いていることに安堵しながら、日常と非日常、聖と俗の境目を歩き回る彼らをげらげららと声を出して笑うのだ〉

芸人とは非日常の住人であり、良い意味でも悪い意味でも「社会不適合者」です。
社会のいわゆる理想的とされてきた生き方——いい大学を出て、大企業に入るというレールには乗れないんだけども、人を笑わせる特異な才能がある。良くも悪くも常識を超越している。普通じゃないから、面白いことができるのが芸人。人格(生活)破綻者も中にはいるでしょう。芸人とはそうした人間を受け入れるセーフティネットとしての側面もある。
今、吉本興業には芸人が6000人いるといわれています。現在の吉本興業は、たんなるお笑いの会社ではありません。政府系の仕事をしていることもあって、時代に合ったコンプライアンスを要求されるのは当然でしょう。ただ、あくまでもこの会社の本筋は、芸人を束ねること。「社会的不適合」の「異能者」がその大半を占める中で、普通の会社と同じ論理でくくるのは無理があると感じているのです。


また吉本興業は、戦後に生まれた近代芸能プロダクションとは立ち位置が違います。
渡辺プロダクションやホリプロなどは、戦後の進駐軍に出入りしていたジャズメンをその源流にしています。それがテレビという新しいメディアの興隆と共に、様々な分野に手を伸ばし発展してきました。その際、創業者の渡邊晋、あるいは堀威夫といった人は、戦前から興行を仕切ってきた、やくざと故意的に線引きしました。やくざの側も彼らが扱う〝新しい音楽〟にはそこまで執着しなかったので、棲み分けが出来たといえます。
一方で吉本興業の創業は1912年。劇場運営、興行で暴力団と密接な関係があった。当時は、それが当たり前だったわけです。芸能プロダクション業も手掛けていた暴力団もあったので、ほぼ同じようなものだと言ってもいい。
2010年の「上場廃止」はそうした体質の刷新であったとぼくは理解しています。ホリプロが一度上場したものの、上場廃止したように、芸能プロダクションというのは、資金調達の必要性も薄く、上場の必然性が薄い。
そもそも戦後、吉本興業がなぜ上場したのか、その理由は良く分からない。
創業家の吉本家から第二創業家とも言える林家が、その実権を奪うために上場したという見方も出来る。必然性のない、きな臭い上場だったんです。
以降、吉本興業は惰性でメリットなき上場を続けてきましたが、一方、デメリットは様々あります。上場維持費用はもちろん、株主である第二創業家の意向、そこにつけ込む反社勢力。そこで大﨑さんが上場廃止という判断をした。当然、もの凄い反発がありました。
多くの嫌がらせがある中で、非上場化をやり遂げたのは、彼の最大の功績だと思います。

現在の吉本興業を理解する上で、大崎さんの特殊な「個」についても触れなければならないでしょう。
彼の足取りを精査すると面白いのは。ある時期まで吉本社内では反主流派であったと証言していることです。
1980年に始まった漫才ブーム時に、紳助・竜介などの現場マネジャーとして東京中を走り回っていました。
しかし82年に大阪に戻され、開校直後の吉本総合芸能学院(NSC)の担当に。そこでダウンタウンの2人を発掘します。
結成当初、ダウンタウンは吉本の従来の観客が集まる大劇場では人気が出ませんでした。
どうすれば才能を開花させられるのか。考え抜いた彼の結論は、若い客層を狙った小劇場「心斎橋筋2丁目劇場」。ダウンタウンはそこで人気に火がつき、一気にスターダムにのし上がります。
ところが大崎さんは、成功したら次の職場に異動。これは一度ではない。NSC、2丁目劇場、吉本新喜劇の改変と、どれも軌道に乗った時に、外されています。能力を認められていたが故に、問題のある部署に回されたという見方も出来ますが、厄介な道を歩まされてきたのは事実でしょう。
そんな中、彼が出世の階段を上るようになったのは、新たな収益源の獲得です。松本人志さんの『遺書』など書籍の出版、音楽出版ビジネスやビデオ、DVD(『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!』など)を含むロイヤリティビジネス全般の新規事業を成功させます。
大﨑さんはこう説明しています。
「それまでのお笑いのビジネスは足し算。つまり、今日は朝日放送で20万円、明日は関西テレビで20万円というふうに積み重ねていく。権利ビジネスというのは掛け算なんですね」
こうした新規事業を確立した勢いで2006年に副社長、そして2009年に社長となりました。

そんな大﨑さんを一言で表現するならば、「人たらし」。
酒を一切飲まないのに宴会の席では人の気をそらさない。メールなどの返信は丁寧でもの凄く速い。そして読書家で幅広い知識がある。彼はそうした読書量をひけらかすことはしない。「興味ある本はとりあえず買っておく。それがずっと積み上がっているんです」と謙遜する。どんな本を読んでいるか、その質が高いかどうかというのは話していてすぐに分かります。正直、ぼくは大﨑さんが幅広い本を読んでいることに驚きました。
『AERA』の『現代の肖像』ではこんな風にぼくは書いています。

〈客に磨かれて生き残る芸人は、内部に非日常と狂気を秘めている。その非日常を楽しむために客は劇場に足を運ぶのだ。そうした個性的な芸人を束ね、未来に導くことができるのは、茫洋とした暖かい空気を漂わせながらも、奥底に鋭く冷めた目を持つ大﨑のような男だけかもしれない〉

『NEWSPICKS』の取材で、「大﨑会長と似ている経営者はいますか」と訊ねられました。ぼくは少し考えて「WWEのビンスマクマホンシニアかな」と答えました(『NEWSPICKS』的に〝ビンスマクマホンシニア〟という名前は響かなかったのか、原稿からは落ちていましたが)。
ビンスマクマホンシニアは、背広組でありながら、レスラーの心をしっかりと掴んでいた。大﨑さんも芸人ではないにも関わらず、芸人から一目置かれる。それは芸人の芯のようなものを理解していること、そしてどこか似たものを感じているからでしょう。
この話を講談社の担当編集者(出版界の新間寿とも称される)S上君にしたところ、プロレス者の彼には響いたようで「確かに、ビンスマクマホン=トランプ、大﨑さん=安倍の親和性というのもありますね」とのこと。
それはともかく——。
経営者としてみて、彼の経営方針も捉えようがないところがあります。
権利ビジネスで収益を上げる一方で、沖縄国際映画祭はずっと赤字でも運営し続けています。
彼はよく「センミツ」という言葉を使います。これは千のうち、三つ当たったらええやないかという意味です。将来を見越した先行投資という声もありますが、大﨑さんが単純に沖縄が好きで、毎年仲間を連れて遊びたいから作ったのではないかと思うこともあります。


もちろん大﨑体制を面白くないと思っている人は少なくないでしょう。
今回の騒動は、反社会的組織とのつながりから、雨上がり決死隊の宮迫博之とロンドンブーツ1号2号の田村亮の記者会見をきっかけに、「経営陣と芸人の信頼問題」に飛び火しました。
会見を受けて声をあげた友近やハリセンボンの近藤春菜は、以前からマネジメントに不満を抱えていたとも耳にましす。
一概には言えませんが、大雑把にくくると、吉本の芸人には2つの流れがあります。
1つは、現在、主流派とされている島田紳助さん、ダウンタウンの流れ。大きな声で騒ぐよりも、シニカルに笑いを取る、「月」のような存在です。
もう1つは、明石家さんまさん、ナインティナインあるいは桂文枝さんなどに代表される、どちらかというと明るい系譜。月に対して「太陽」のようなイメージでしょう(もちろん、「太陽派」も、心のどこかには深い闇を抱えているでしょうが)
そして今、経営陣に対して物申しているのは、明るい「太陽タイプ」の芸人が多い。月側の芸人を育てた経営陣が権力を握っているのが理由でしょう。

ただし、月と太陽の芸人は、決していがみ合っているわけではありません。
結びつきは派閥のような確固たるものではなく、緩やかな関係。各芸人は月と太陽どちらかにシンパシーを持っているのでしょうが、個人的な因縁はあるにしても、系譜が違うからといって、仲が悪いという話は聞きません。
それぞれのトップ、島田紳助さんと明石家さんまさんの仲が良かったというのが、その証左でしょう。
吉本興業というのは、月と太陽、それぞれの系譜が、大崎さん、そして後述しますが〝劇場〟という「重力」にゆるく引きつけられている。絶妙なバランスの上に成り立っている、とも言えます。
そのため、松本人志さんや島田紳助さんが言うように、「大﨑さんがおらんかったら、吉本はダメになる」という主張に同意します。
中田カウスさんから林正之助元会長の話を聞いたことがあります。彼によると林元会長は侠客というか、〝堅気ではない色気〟があったと。いつもおしゃれで、楽屋に来て散々、芸人を笑わした後にすっと姿を消す、みたいな感じだったそうです。繊細さと強面の部分を両方持っている。それは大﨑会長と似ていると。
繰り返しになりますが、癖のある芸人をまとめるには普通の人では出来ない。
そんな大﨑さんに対しては、社員から畏敬の念が強い。一連の岡本社長の行動は、大﨑会長を守るために忖度して、結果として空回りしてしまったように見えます。


今回の「経営陣vs芸人」の対立に火をつけたのは、宮迫・田村会見を受けた、極楽とんぼの加藤浩次の「経営陣が辞めなければ、僕は辞める」という発言でした。
加藤浩次は、ナインティナインと一緒に「めちゃ×2イケてる!」にも出演していた、どちらかといえば太陽サイドの芸人です。
しかし今回の発言の背景には、会社に対する不満よりも、「芸人」という存在の変質があるように感じます。
NSCなどの登場によって、世の中に芸人が溢れ、それぞれがブルーオーシャンを求めて、さまざまな分野に進出しました。
特に目につくのが、ワイドショーの司会やコメンテーターとして活躍する芸人たちです。非常識なことを言うのが仕事だった芸人が、社会の代弁者として常識を語るようになった。
本来、一般社会の常識にとらわれない芸人は、本来は「空気を読む」ことを求められないはずです。ところが今は逆に、「空気読む」ことが必要な資質になっています。
社会学者の太田省一氏の『芸人最強ニッポン』(朝日新書)を引用します。

〈芸人から本来ある専門性が剥ぎ取られ、代わりに市民感情を上手く汲み取り代弁するスキルが要求されるようになった結果、芸人はあらゆる分野に我々の分身として存在するようになった。言わば「○○芸人」とは、私たち市民の代表者としての姿である〉

ぼくもこの考察に同意します。
かつて可朝さんが参議院選挙に立候補したとき、その公約は〈一夫多妻制の確立と風呂屋の男湯と女湯の仕切りを外すこと〉でした。これぞ芸人であるとぼくは思いますが、今の芸人は絶対にこの種の発言はしない。
宮迫・田村会見を受けて、世の中の大半の人は、「吉本はひどい」という印象を抱いたでしょう。そして加藤浩次はワイドショーの司会者として、吉本芸人という立場を交えつつ、世間の気持ちを代弁したのかもしれません。
ただし、芸人という生き物は、とてもしたたか、であることは忘れてはなりません。彼らは何がウケるか、売れるかを常に考えている。その意味では今も昔も芸人の本質は代わっていない。今、世の中で求められているのは、可朝さん的な破滅型芸人ではなく、市民の代弁者の役割が求められていることが分かっていて、それを演じている。
ワイドショーが広義のジャーナリズムであると仮定しますが、彼らはワイドショーに出ているからといって、ジャーナリズムに関わっている意識はない。彼らは自分たちの不都合な話題になると自分たちは芸人であるからという風な逃げ方をすることでしょう。ワイドショーの司会として、「経営陣に対して吠える」というのも、加藤浩次流の1つの芸かもしれません。
司会者という立場でテレビを使って自らの存在感を出したという意味では、芸人らしい、と言えるかもしれません。

さらに今回、一連の騒動の中で明らかになったのが、吉本が所属タレントのほとんどと契約書を交わしていないという点でした。
しかし、ゆるやかな関係で結びついているからこそ、マネージャーがついていない芸人でも「僕、吉本興業所属です」と名乗ることが出来る。つまり、芸人としての通行手形になるのです。
例えば今、一部の吉本興業の芸人は、47都道府県に定住する「住みます芸人」として、全国で活動しています。
彼らはなんとか生活していくために、それぞれの地方で「吉本の芸人」という看板を使いながら仕事を取ってくる。地方のテレビ局のスタッフも、「吉本の芸人」という幻想があるから会ってみようかという話になるわけです。
契約とは権利と同時に義務が生じます。厳密に契約を結んで、例えば給料制を採用すれば、そうした芸人未満の人間は切り捨てられることになる。
劇場のギャラが1公演あたり数百円と安いことに対して、もちろん不満がある芸人は多いでしょう。
それでも吉本の芸人であるというメリットは大きい。
とはいえ、今後は何らかの契約書は必要になってくるでしょう。芸人の価値によって、ハリウッド俳優のようなA契約、そこそこ売れている芸人にはB契約、無名の芸人は給料保証なしの契約のみというC契約といって具合に区別をつけるかもしれません。
そしてもう1つ、今まで吉本がタレントと契約書を交わしてこなかったのは、戦略的な背景、そして芸人を惹きつけるもう一つの強い力〝劇場〟の存在があります。
再び、ぼくが執筆した前出の『AERA』誌を引用します。

〈吉本はぬえのような得体の知れない企業である。他の芸能プロダクションのような専属契約はない。主たる芸人と劇場出演契約を結んでいるだけだ。またマネージャーがべったりとつき、芸人を管理することもない。いわば放し飼いである。芸人をつなぎ留めているのは劇場だ〉

劇場に出られることが芸人をゆるやかに惹きつけてきました。
大﨑さんは「会社が買収や乗っ取りがあっても吉本の財産は芸人のみ。強いて言うなら不動産くらいで、買収されれば芸人は別に移るだろう」とも話していました。
確かに、詳細な契約書で縛られていないのであれば、会社が乗っ取られた場合、タレントたちはすぐに辞めてしまうかもしれません。
過去に買収リスクにさらされた吉本としては、確信犯として契約を結んでこなかったんだろうなという見方もできる。


一連の騒動は、どこに着地するのでしょうか。
記者会見によって、宮迫博之と田村亮の2人が反逆のヒーローのように仕立てられていますが、そもそも嘘をついた人間たちを賞賛するのは筋違いでしょう。100万円という大金をもらっておきながら、「忘れた」とするのには無理があると感じます。宮迫博之や田村亮ほどの芸人ならば、お金欲しさにわざわざ闇営業をする必要はありません。
売れている芸人ほど、近寄ってくる人が多いので、その人間の背景に対して敏感です。それぐらいの感性がないと芸人の世界で生き残っていけない。行動の不自然さから、そこには、何らかの裏があったのではないかと見られるのが妥当でしょう。
『FRIDAY』で報道された「金塊事件の犯人との関係」など、まだクリアになっていない点はたくさんあります。
これから新しい情報が出てきたとしても不思議ではありません。
一方、経営陣や噛み付いた芸人の進退については、私は結局のところ、誰も辞めないのではないかと考えています。
ワイドショーを中心に、連日メディアは吉本問題を大きく取り扱っています。
しかし結局、誰も辞めないとなると、口角泡を飛ばして真面目にコメントをしていた論客だけが馬鹿を見る結果になるでしょう。
今回の一件は、したたかな吉本芸人たちによる、メディアと視聴者を巻き込んだ、〝笑い〟あり〝裏切り〟あり、そして涙の大団円を迎えるという壮大な「新喜劇」なのかもしれません。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?