見出し画像

真説佐山サトルノート round 16 一度目の前田日明取材

【この原稿は二〇一六年八月から二〇一八年四月まで水道橋博士主宰「メルマ旬報」での連載を修正、加筆したものです。秘蔵写真も入っている全話購入がお得です】


 ノンフィクションではしばしば「事実」という言葉を使う。「事実」を積み上げて作品を書き上げる、あるいは粘り強く取材を重ねて「事実」を確かめる――といった具合だ。
 ただし、日時、固有名詞など絶対的なものを除けば、会話、人間関係、その場の様子ついては、証言者によって「事実」は変わってくる。そのため、証言の内容はもちろんだが、誰がそれを語っているのか、が重要になる。そして信頼出来る証言者であっても、錯誤や思い込みの罠からは逃げられない。本当に何が起こったのか知るには、現場を空から俯瞰して録画しておくしかない。つまり神のみが可能である。
 朝日新聞の記者だった扇谷正造氏は『現代ジャーナリズム入門』でジャーナリストの目指す「真実」について、こう書いている。

〈真実とは、これを分析すると、いくつかの無数の正確な事実の断片から組み立てられている。それが、一つの調和と均衡のとれた形に組成されたとき、真実、いや――真実らしきものが、われわれの眼前に立ち現れるといったほうがいいかもしれない。
 比喩的には、こういうこともいえる。真実を仮に円とする。われわれの努力目標は、この円に内接する(あるいは外接する)多角形を描くことである。そして、できるかぎり、この多角形は辺数の多いことが望ましい〉

 ぼくに言わせると扇谷氏の表現は手ぬるい。そもそも日付けや時刻などの絶対的事実を除けば、多くは〝事実〟は〝事実らしきもの〟に過ぎない。
 ノンフィクション作品の〝事実〟が、後に出たノンフィクションで覆されることがある。ノンフィクション作品の〝事実〟や〝真実〟は作者が読者に納得させ、共通了解を得ただけに過ぎない。良心的なノンフィクションの書き手とは、自分の書き上げる作品が砂上の楼閣に過ぎないことを自覚しているものだ。
 プロレスの取材において、証言があてにならないことは度々書いた。『真説・佐山サトル』と並行して、ぼくは講談社の『週刊現代』と『現代ビジネス』で『ザ・芸能界』という不定期連載を書いていた。芸能界の取材も同様だった。
 芸能界の場合は、畏友である水道橋博士の言葉を借りれば〈義理と人情が張り巡られされた世界〉であり、そこに過去の怨念や利害関係が複雑に入り込んでいる。どちらの取材も目隠しをしたまま平均台を歩いているようなものだった。多少の瑕疵はともかく、大きく踏み外せば、一気に信頼を失うという怖さだ。
 その怖さを払拭するのには、取材を積み重ねるしかない。取材を元に仮説を作る。そしてさらに取材すると、仮説は木っ端みじんに砕かれる。そしてまた新たな仮説を組み立てる。その繰り返しが、作品を逞しくする――。
 そのことを強く認識したのは、前田日明さんへの取材だった。
 前田さんに初めて話を聞いたのは二〇一六年六月末のことだ。

ここから先は

2,779字

¥ 200

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?