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単行本で振り返る、「ややこしい人」を書き続けてきた、ぼくの二十年

 今年、二〇二〇年は小学館を退社して二〇年目にあたる。
 表現者は時代の流れに寄り添うものだ。単行本には、意図する、しないを別にしてそのときの自分と時代の空気が投影されている。
 最初の十年間、キーワードは「自分の肌で世界を知ること」だった。週刊誌で働いていたとき、自分の無知を痛感した。本を読むのはもちろんだが、身ひとつで旅をしたいと思った。そこで生活している人間の息づかいを感じたかった。小学館を辞めてすぐに、ポルトガルとスペインを約二ヶ月放浪している。ぼくにとっては初めての欧州大陸だった。

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 その後、一年間でブラジルへ三回、マイル換算で地球を五周した年もある。この時期は、日本人のアスリートが次々と国外へと出て行く時期と重なっていた。サッカー選手の廣山望君を追いかけて、パラグアイ、ブラジル、ポルトガル、フランスへ行き『此処ではない何処かへ 廣山望の挑戦』(幻冬舎)という本を書いた。未だにぼくにとって最も大切な作品の一つである。
 そして『W杯ビジネス三十年戦争』(新潮社 文庫版『W杯に群がる男たち』)は、二〇〇二年ワールドカップ招致からの国際スポーツビジネス取材の集大成となった。当時、三十代の自分にとっては、少々手に余る題材で、指の先でなんとか引っかかって書き上げた作品だった。
 最初の十年の締めくくりは、絵描きの下田昌克と一緒に作った『辺境遊記』(英治出版)だった。〈東京から二十四時間以上掛かる場所〉を文章と絵、写真で切り取った作品である。

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 その後、腰を据えてしっかりと取材対象と向き合う十年に入った。どこかで書かねば前に進めないと考えていたのが『偶然完全 勝新太郎伝』(講談社)である。この後、何人もの取材相手からこの本を読んだと言われた。今も勝さんに助けられていると思うことが、しばしばある。
 小学館を退社したとき、描きたいテーマがいくつかあった。その一つが伊良部秀輝さんだった。彼はぼくが取材した二ヶ月後、突然この世を去った。ぼくは最後のインタビュワーとなったのだ。彼の評伝『球童 伊良部秀輝伝』(講談社)を描くために、LA、NYC、そして彼の実父の住むアラスカまで足を伸ばした。悲しい形で亡くなった人間を等身大で描くのは難しい。ノンフィクションを描くことの意義を何度も自問自答した。
 そこから『維新漂流 中田宏は何を見たのか』、そして『真説・長州力』と『真説・佐山サトル』(いずれも集英社インターナショナル)に繋がった。プロレスがノンフィクションの題材となる時期に居合わせたのだ。長州さん、佐山さんと何度も会い、癖のあるプロレス関係者を取材することで、物書きとしてやり続けていけるのではないかという手応えを得た。
 その他、『W杯に群がる男たち』で描ききれなかった部分を『電通とFIFA』(光文社新書)で書き、『球童』から『ドライチ』『ドラガイ』『ドラヨン』(いずれもカンゼン)のドラシリーズが派生した。五〇枚程度の短編の面白さを再発見し、写真家の関根虎洸さんとの『全身芸人』(太田出版)も上梓した。

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 振り返れば最初の十年、しばしば「スポーツライター」あるいは「スポーツジャーナリスト」という肩書きをつけられたものだ。自分の興味のあることを追いかけるのは作家として当然であり、そのときはたまたまスポーツだった。それだけだ。にも関わらず、スポーツの枠組みに押し込まれることが窮屈だった。ただし、立川談志さんの〈評価は他人が決める〉という(立川談慶さんの本で知った!)言葉通り、他人からそう見えるならば仕方が無い。次の十年で、様々な分野を取材していた「点」と「点」が繋がるようになった。そして、自分に対する評価も変わった気がする。
 次の十年はどんな風になるのだろうか。夏前から久しぶりにサッカーに関する連載を始める。そして、芸能界、あるいは鳥取大学付属病院広報誌「カニジル」などの医療分野――書きたいことが沢山ある。

 最後に——。
 小学館を退社したとき、三十一歳だったぼくは今日、五十二歳になった。これまで多くの担当編集者、そして読者に支えられてきた。感謝しかない。

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