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真説佐山サトルノート round23 ジークンドーの達人

【この原稿は二〇一六年八月から二〇一八年四月まで水道橋博士主宰「メルマ旬報」での連載を修正、加筆したものです。秘蔵写真も入っている全話購入がお得です】


 〝会議〟の詳細を調べることが難しいことの一因は、修斗に関する資料はごく限られていることだ。
 プロレスの場合、『東京スポーツ』――東スポがある。しばしば東京スポーツは日付しか会っていないと、揶揄されるが、それは間違いだ。
 特に一九八三年の新日本のクーデターから、翌八四年のUWF立ち上げの時期については、東京スポーツの記事を書き出し詳細な年表を作った。
 八三年八月はこんな感じだ。

 十一日午前一時、佐山サトルは新日本プロレスを退団すると東京スポーツ編集局に電話を入れる。
 同日一三時半、新日本で新間寿らが緊急記者会見
 同日一五時半 佐山側から内容証明が届く。
 十二日十二時半、佐山が二子多摩川の富士会館に現れ、保持していたベルトを返却。新日本側は副社長の大塚博美、常務の望月知治、そして山本小鉄が出席。
 同日一七時五十六分、藤波辰巳、小林邦昭らがカナダへ出発。
 
 佐山さんはカナダのカルガリーで行われる大会前に新日本から離れなければならなかった。佐山さんたちの証言をそこに重ねていくと、当時の動きをかなり正確に把握することが出来る。
 取材記事の基本は「5W1H」――When(いつ) Where(どこで) Who(誰が) What(何を) Why(なぜ)である。中でもぼくは「いつ」「どこで」「誰が」の三つを大切にしている。そして「3W」の確認となるのは、契約書、プレスリリース、あるいは新聞や雑誌といった書面である。繰り返しになるが、人の記憶はあてにならない。WEBやブログは個人が好き勝手に書いているものがほとんどで、校正機能はない。公式書類、そして経験を積んだ書き手、編集部のチェック、校正者の目が入った新聞記事は、時に間違いがあるにしても、他と比べれば信用できる。
 佐山さんが立ち上げた修斗は、プロレスではないため、東京スポーツが追っていない。また、ルールを煮詰め、選手を静かな環境で育成するために一時期、格闘専門誌の取材も断っている。そのため、初期の修斗に関しては、いつ、どこで、大会があり、誰が参加したのか、あるいはジムがいつオープンし、移転したのかという資料がない。
 証言が食い違うであろう、初期修斗に関わった人間に取材していくには、「日付」と「場所」という絶対的な〝真実〟を時系列で並べて年表を作ることは必須だった。
 先が見通せないときは、足を動かすことだ。

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