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90年代までの週刊誌には何か「コト」を起こそうという気概があった

火曜日の水道橋博士と原カント君との配信イベントでは、ぼくが二十代だった、週刊ポスト時代の話になった。
今、webで連載している「国境なきフットボール」は2001年に横浜FCから戦力外通告された要田勇一をスペインのラコルーニャへ連れて行く場面になっている。メルマ旬報の連載「ぼくは、いかにややこしい人を取材し、原稿を書き続けてきたか――私的ノンフィクション論」は、Jリーグ初年度93年シーズンに差し掛かっている。
それぞれぼくは、30代前半、20代半ばだった。

かつての週刊誌には、世の中に隠されていた、あるいは知られていないこと——平たく言えばスキャンダル、スクープを出すことに加えて、何か面白い「コト」を起こそうという気概があったと水道橋博士との配信で話した。

例えば——。故・永谷脩さんは、江夏豊さんをアメリカに連れて行きメジャーリーグに「挑戦」させた。これは元々、週刊ポストとNumberの企画でもあった。

昨今の週刊誌報道は、ぼくにすれば「焼畑農業」のような危うさを感じる。もちろん政財界の不正は暴くべきだ。しかし本来はプライバシーであるはずのタレントのスキャンダルを正義面して報じるのは好みではない。風紀にうるさい、学級委員に囲まれているような、居心地の悪さがある。そんな世界、楽しくない。

今回の「国境なきフットボール」で書いたように要田勇一をスペインに連れ出したり、あるいは(「真説長州力」で)元力士でもある安田忠夫氏の引退興行を行い、その資金を使ってブラジルで相撲を教えさせるということを考えつくというのは、あのときの週刊誌編集部の空気を吸っていたことと関係があるかもしれない。

さて、さて——。

メルマ旬報の連載では、ゲイリー・リネカーを名古屋グランパスに連れてきた青山ヨシオさんと会食したとき、ぼくは(生意気にも)欧州のフォワードだけではチームで機能しない、ガスコインも一緒に連れてくるべきだったと言ったことに触れた。
今、青山さんのことを知る人は多くない。ただ、青山ヨシオさんはペレ(そしてマラドーナ)の日本での窓口であり、電通の高橋治之氏がスポーツビジネスを手掛けるきっかけとなった「ペレ引退試合」のはじまりでもあった(「電通とFIFA」「W杯に群がる男」でも少しだけ出て来る)。

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https://www.kobunsha.com/shelf/book/isbn/9784334039035


メルマ旬報、国境なきフットボールの原稿を書くために、昔の日記を引っ張り出し、資料と照らし合わせると自分の思い込みに気がつくこともしばしばだ。いつものことながら、記憶はあてにならない。当時の知人に連絡を取り確認する作業が必要となる。十年後ならば出来なかったかもしれない。過去を振り返れ、という時期に来ているのだろうか。

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メルマ旬報に出てきたアルシンド。イグアスにある彼の家に行ったときの写真。

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