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鴈龍、あるいは鴈龍太郎——奥村雄大さんの死について。

 鴈龍、あるいは鴈龍太郎こと奥村雄大さんと初めて会ったのは、今から二十年以上前、まだぼくが二十代のときだった。
 「週刊ポスト」の編集部員だったぼくは、彼の父親である勝新太郎さんの連載担当になり、勝プロモーションに一時期ほぼ毎日、訪れていた。
 勝プロは六本木の麻布警察の裏にある、マンションの一室にあった。貫禄ある勝さんはもちろんだが、その他、事務所に出入りしている、何をしているのか分からないような、胡散臭い人たちに圧倒されていた記憶がある。
 そんな中、気を遣ってくれたのが、年の近い雄大さんだった。
 勝さんは人を褒めるのが上手だった。「うちの雄大とお前を代えて息子にしたいぐらいだ」と言われたこともある。。過去に同じようなことを言われた人間は沢山いただろう。雄大さんも「親父がお前を田﨑君と変えるなんて言うんだよ」と笑っていた。ぼくは長男で上に兄弟がいない。三つ年上の雄大さんという兄貴が出来たような、くすぐったいような気分だった。
 そのうち、雄大さんから誘われて二人で飲みに行くようになった。そのとき、彼の言葉の端々から、勝新太郎の息子であることの大変さを感じた。
 雄大さんは勝さんが監督を務めた「座頭市」で映画デビューしている。準主役の扱いだったため、大きな注目を集めることになった。勝さんの息子であるという期待もあったが、多くは父親の依怙贔屓で抜擢されたという冷ややかな目だったはずだ。その中で監督である父親から認められようと必死だった。勝さんの演出の妙もあったろう、緊張感のあるいい芝居だった。しかし、撮影中の事故があり、正当に評価されなかった。
 これについては『偶然完全 勝新太郎伝』の中で書いた。
 こういうことだ——。
 この日、ジュラルミン製の模造刀に不都合があった。さらに予備の竹光の銀紙が禿げていた。代わりの模造刀を探すには、撮影を中止しなければならない。すでに撮影は大幅に遅れており、監督の勝さんは苛立っていた。スタッフは勝さんと仕事をするのが初めての上、時代劇に不慣れだった。そこで撮影を停めることもできず、残っていた〝本身〟を渡した。斬り合いをする場面でもなんでもないから大丈夫だと思ったからだ。
 ところが、出入りの撮影であったため、多くの俳優がせわしく動きまわっていた。すれ違ったときに、雄大さんの持っていた刀が首筋に当たった。運悪く刀は頸動脈に当たり、血が吹き出た。そして一人の俳優が亡くなることになった。
 報道統制したこともあったろう、事故の背景はきちんと伝わらなかった。
 直後の報道はこんな風だった。
 雄大さんを身びいきで準主役に抜擢したのがそもそも問題だった。彼は甘やかされて育ってきた。その証拠に大麻で二度の逮捕歴がある。俳優として未熟な雄大さんを引き立たせるためにが引き立つために、勝さんがわざと本身を持たせた――。
 こうした世間の思い込みを引きはがすほど、雄大さんは強くなかった。
 勝さんは、本当に優しく、気遣いの人だった。雄大さんは勝さんのそうした部分を色濃く受け継いでいた。ただし、勝さんのような荒っぽさ、気の強さはなかった。それにも関わらず、勝新の強い息子を演じようとしていた。雄大さんは勝さんのことが大好きで、尊敬していた。偉大な父親に近づきたいとずっと藻掻いていた。加えて事故のイメージが彼を圧迫した。苦しかったはずだ。
 雄大さんはしばしば亡くなった俳優の方のお墓を訪れて、掃除、供養していた。
 最後に会ったのは二〇一七年二月のことだった。そのとき彼は今も墓には行っているんだよと言った。
「いっつもね、アサヒビールとショートホープと花を備えて。俺も煙草を一本吸ってから帰ってくる」
 丁度、このとき、雄大さんは引っ越しをしていた。落ち着いたらご飯食べよう、酒を飲みながら話をしようと言って別れた。その後、電話では話をしたが、会ったのはこれが最後になった。
 どんな風に雄大さんが亡くなったのかは、あまり知りたくない。勝新太郎の息子を演じることに疲れたのかなと思う。少しではあったが、縁のあった弟分として、向こうの世界で大好きな父親、勝さんに会って笑っていることを願っている。

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