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君たちはどう生きるか を観た!

君たちはどう生きるか を観た!以下ネタバレ有りだ!!






見たのはちょっと前の話なんだけど書き殴ってたメモが残ってたから供養させて!あと先に言っとくけどジブリ作品にも映画自体にもなんの造詣もない素人の感想なのでやさしく見て!!




眞人の家庭

・眞人の孤独感、無神経な父親、母親と言うより女性(もっと言うと父親の恋人)の感が強すぎる今まで叔母だった母親、周りが全員敵に見える感覚めっちゃわかる。
私も自分が小学生の頃母親が再婚して、なんかどうしようもなく全部が嫌だった。母親のことを一人の人間として尊重できる年齢じゃなくて、「母親」っていうある種役職名みたいな部分しか認識してなかったんだよな。母親なら私のこと誰より理解して愛してほしいのに、私が全然知らない人と知らない顔して話さないで!みたいな。今考えるとすごく自分勝手だったなって思うけど、眞人の場合はもっとしんどそう。実母が亡くなった直後に全然知らない場所で…父親一人しか味方がいない感覚があっただろうし、相当気張ってただろうな。唯一の味方である父親が全然知らない人みたいな顔で自分の知らない(のに自分が母親と呼ぶべき)人と話す。想像するとさびしい。でもそういう分別のなさって子どもなら誰でもあるし…って、私は関係ないからそう思える余裕があるけど、戦争で激動の時代、どうにか変化に迎合して生きていこうとしてる周りの大人のことも作中で細かく描写されてて、大人側もそんな余裕なかったんだなってすごく感じた。
いつだって悲壮感なんて欠片も見せず眞人と接してたなつこさんが熱に浮かされてた時、眞人の怪我を見て「姉さんに申し訳が立たない」みたいなこと言ってて、なつこさんが一気に人間味を持ったと思う。結果的に姉妹で同じ人と結婚して同じ人との子どもを孕んで、どうしてもなつこさんに悪感情を抱いてたし抱くような描き方がされてたと思うんだけど、そこでただただ気丈なだけだったんじゃないかって思えた。ただ眞人はそこでなつこさんが自分越しに自分の母(なつこさんにとっては姉)を見てたのはさびしかっただろうなと思う。結局誰も眞人自身のことを見てくれないんだ!!みたいな気持ちは強くしちゃっただろうね。でもだからこそ普段はそんなこと微塵も出さなかったなつこさんがすごいなと思った。なつこさんからしたら正直眞人本人のことを語れるほど知らないじゃん。でもなつこさんは眞人のことをちゃんと見てたと思う。ただほんとにしんどい時にぽろっと出た台詞で眞人の心が離れていくのが感じられてしんどかったな。最初寝巻き姿でふらふら森の中に入ってくなつこさんを見た時、眞人がそのまま放っておいちゃうとことかね。父親の方も人の心の機微に疎いってだけで、眞人を守ろうと全力を尽くしてはいるじゃん。空回ってるけど。周囲の人たちは眞人から見たらため息ついちゃうような言動をとるかもしれないけど、間違いなく原動力は「眞人への愛」じゃん。眞人はそこをちゃんと掬いとって自分も同じように周囲の人たちを愛していける子だと思うんだよ、ほんとは。でもそういう聡明でちょっと小癪な子どもとちゃんと目と目を合わせて喋る心と時間の余裕がないのが、周囲の大人たちにとってもしんどかったと思う。ほんとうに誰が悪いとかじゃなくて、眞人の立場だったら誰だって置いていかれた気持ちになっちゃうだろうな。傍から見たら意固地なかわいい子どもなんだけどね。大人にならなくていいよって言ってあげられる人がいなかったんだろうね。

周囲に対して「どうせわかってくれない、気づいてくれない」って気持ちと「わかってほしい、気づいてほしい」の間で揺れ動いているのが伝わりやすい心理描写だなってすごく思った。なつこさんの気持ちが揺れ動くのも分かりやすかったな。表情見ただけでめっちゃ伝わってすごい。巧みすぎる。



食事、狩り

・眞人とキリコさんが魚を狩る→わらわらと一緒に食う→わらわらが転生しようと空に登る→わらわらがペリカンに食われる→ひみさまがわらわらを炎で燃やして追い払う→ペリカンのおじいちゃんが瀕死の状態で眞人の前に落下、ペリカン側にも相当な苦労がある(ペリカンがとても飢えている=世界の食う食われるのバランスが崩れている{あるいは食物連鎖という概念が無いのかも}、生まれる子供は飛ぶことを忘れつつあり、種族としての滅びが近いことを悟っている)ことを吐露して死ぬ→眞人がペリカンを埋める

・キリコさん「最近魚を狩れてなかったから、今回わらわらに腹いっぱい食わせられて良かった」
→ペリカンのおじいちゃんがこの台詞を言えない虚しさ…おじいちゃんだって腹いっぱい食わせたかったよねえ…自分が生きたい、自分の大切な人に生きていてほしいと願わない種族などいないんだよな…と思った 繁殖するための行動をとるのは生き物が生まれ持った本能だけど、もっと近くで一人/一匹を見たらそれぞれに大切なものがあるよな…

・眞人がひみに食べさせてもらった苺ジャム(とバターが塗られたパン)を食べるシーンで、眞人が口の周りをジャムでべっとべとに汚してて、しかもそのジャムがやたら赤くて一瞬苺ジャムじゃなくて血かと思った
→血の暗喩っぽい。母乳は血液(から赤血球をのぞいたもの)からできてるらしくて、ひみと眞人の母子関係を暗示してるのかな、と思った。母親(ひみ)から与えられたものを無邪気に自分の養分とするの、生き物の本質っぽい。食べないと死ぬから食べてるだけだよな。子どもの親は子どもが死んだら悲しいから食べさせたいっていうのも当たり前で。ペリカンを見た後だとなおさら色々考えさせられるシーンだった。

作中の描写はあまりに生々しいと思ったけど、生々しいから駄目で生々しくないから許されるべきってのもなんかおかしい気がする。普段生活していく中で、自分が殺した生き物を食べることを糧としている、みたいなことを生々しく感じることはあんまりないじゃん。でもこの映画を観て改めて、人間は本質的に他の生き物と同じってことを象徴してるのかなと思った。食べないと死ぬのは他の生き物と同じじゃん。人間は社会の中で食事を摂るまでの過程の諸々を分業してるだけで。私は丁寧に人間の優位性を否定していってるように感じた。で、その上で人間がめっちゃ悪い生き物だとも思わない、って感じ。良くも悪くもフラット。繁殖は全ての生き物にとっての使命で、運が良ければインコだって条件が噛み合って繁殖できる。繁殖は人間の特権じゃない。って言ってると思った。



“塔の中の世界”

・わらわらは死んだ人間が人間に生まれ変わる、ひみさまは火を操る
→人間の特別感

・インコの繁殖能力が強い
→人間を彷彿させる国、王ができる

・そもそも大叔父さまは人間

のように、人間の特別感があからさまに強いと感じるシーンが多い

“大叔父さま”

・大叔父さま「石を積め」→眞人「それは悪意」
これって製作者の自虐?積む石の数が宮崎駿監督作品の数と同じ=大叔父さまは宮崎駿監督?っていう考察を読んだけど、自分が作る世界はどう足掻いても人間側に寄ってしまう、人間優位的な作者の作為(あるいは人間としての意識そのもの)=「悪意」と眞人が言ったのかな?
なんにせよ1人(大叔父様)に調節された世界は健全じゃないと思ったし、だから最後に塔が崩れて安心したし、そう思わせてくれてよかった。けど、そういう解釈だと製作者側がめっちゃ自罰的っぽく感じちゃうよね。まああくまでも私個人はそう感じたので…



姉妹考察

・眞人「母親がいない」→ひみ「私と同じ」
ひみとなつこさんの実家なのに2人の両親、眞人にとっての祖父母がいないのが不思議だった。時代背景的なものではないのなら、眞人や視聴者が思うよりもずっとひみとなつこは繋がりの強い姉妹だったのでは。難しいね。

・ひみってみんな呼んでたけど、本名はたぶん「ひさこ」っぽかったんだよな。ひみってどういう意図の愛称だったんだろう。塔の中で出会った「ひみ」という名前の少女と、病院で炎に焼かれて亡くなった眞人の母親の「ひさこ」が別人のように感じさせられるけど、作中でなにかエピソードがあるのかな。気になる。ひみは塔の中で炎を操ってたり、明らかに他と違う能力を持ってたけど、塔の中に迷い込んでから何があったんだろう。わかんないし気になる。私が知らないだけで世の中のひさこさんはひみというあだ名がつけられがちなのだろうか。わかんないな。



エンディング曲

・大叔父さまについての考察と繋がるんだけど、宮崎駿は監督として映画の中の世界を作っている(=創造神的な存在である)のに、映画の世界の外では自分も他人と同じで世界の一部(何かによって創造されたたくさんのうちの一つ)に過ぎない感覚→自分自身が地球の上に立っていながら地球を俯瞰できる(=創造神的な視点で地球を見られる)地球儀がモチーフになっているのでは

・僕が生まれた日の空は高く高く晴れ渡っていた
→抽象的な印象を受ける映画に対して、一貫して写実的な歌詞の曲だと思った。し、米津玄師は「晴れをポジティブなものの象徴、雨をネガティブなものの象徴として扱うことをなるべく避けたい」と思っていて、そして一方を肯定することはもう一方を否定することだと思ってい(てほしい。私が。)る人だと思っていたので、こんなにストレートに表現していてびっくりした。うまく言えないけど、自分が否定されてきた自負があるからこそ、誰か/何か を否定することをめっちゃ恐れている人っぽいと思ってた。たぶん、これはほんとうに事実としてこころは晴れ渡っていたっていう…自意識とかこだわりとか躊躇とかとっぱらって晴れ渡った空の美しさを希望と表現していて、すげー…すげーなって思った。ものすごい刺激を受けたんだろうなたぶん。私も卑屈になっていないでなにかしてみようと思った。から今note書いてみてる。刺激の連鎖すばらしいな。

・僕が愛したあの人は 誰も知らないところへ行った あの日のままのやさしい顔で 今もどこか遠く
→必要以上の悲壮感を感じさせない歌い方だと感じた。ひみがその時間軸(あるいは世界線)では未来で息子を置いて火に焼かれて死ぬことを知らされた上で、躊躇いなく自分が元々来た、眞人とは違うところへ帰って、眞人となつこさんは「ひみ」も「ひさこという名前の眞人のお母さん」もいないところへ帰ったんだけど、お互いが「今もどこか遠く」で生きている/見守っている だろうなって、歌詞の続きには希望が見えた。



まとめ

君たちはどう生きるか、ってタイトルは、お前それじゃだめだろ!っていうより、本質的にどう生きてもいいんだよ、って言われた気がする。登場人物みんな好き勝手に生きてたじゃん。でもそれが駄目ってことはないでしょ。べつにいいじゃん。というか“「好き勝手じゃないこと」ってなんだ?”って問題提起のようにも感じた、なんなら。どうやら人一人に神様業は重すぎるっぽいし、なら完全な俯瞰なんて存在しないから、全ての意見は主観に帰結しちゃうじゃん。「そんな風に生きてちゃ駄目だ!!」っていうのはあくまで相手の意見であって、それを正しいこととして受け止めるかどうかはこっちの責任じゃん。「その意見は正しい」ってするのか、「その意見は正しくない」とするのか、最終的な意思決定は自分でするしかない。そもそも、本当に相手と自分が同じ考えを共有してるかどうかなんて、結局どう頑張っても証明できないんだし。でもそれってすごく悲しいことってわけでもなくて、食う/食われる の関係で私は色んなものと繋がってて、そして私に食べて、生きてほしいって思う人もいて。私にあるのはこの身一つなんだけど、生き物のその身一つって色んなものと繋がってるんだなってすごく感じた。私は小さいけど、それは大きいものの一部なんだ、って思った。だから私は映画を観たら気負いがとれたよっていう話なんだけど、まあその辺は観る人によるっぽいから、まあとりあえず観てみてください。映画館で観るジブリ、すっごかった。鳥が鳴いてるシーンとか、え!?いる!?ってなって周り見渡したもんな。あれすごいよ。エンディングの米津玄師もすごい。最初から最後までみっちみちに詰め込まれてて、関わった人が全員全身全霊で自分の仕事をやり遂げた感があり、とてもとても質量を感じる作品だった。私は号泣しました。

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