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人の目

いつからか人の目を極端に気にするようになっていた。
街に出かける時も、ご飯を食べる時も、大学内で行動している時も、
周りからどう思われてるか、周りに変にみられてないか。
そのセンサーだけが敏感に機能していた。

この人の目を極端に気にしてしまう癖はもちろん、何か行動を選択するときにさえも影響を及ぼしてくる。
服を選ぶ時だとか、レストランで座る席だとか、はたまた本来匿名で自分の独り言ペースであるTwitterにさえもその癖は侵入してくるようになった。
それを加速させたのは、現在のTwitterやTikTokなどに蔓延る、晒し文化だ。(これについては後日詳しく述べようと思う)

正直、疲れる。疲れるだけではない。虚しく、寂しく、悲しく…そういった感情が渦巻いていき、徐々に心を蝕んで、最後に残るのは疲弊だけだ。
そこにプラスの感情はない。例え自分の中で最善だと思った行動をしても、他人に変に思われる恐れというのは、他人の主観であるがゆえ、常に付き纏う。どんな行動をとっても、この癖があるだけでネガティブな感情が混じってしまうのだ。

こんなとき、ふと思う。誰も気にしてないだろうと。
街中にいる一個人がどんな服を着てようと、基本的に自分の何かが傷付けられたりすることはない。
それに例え変だと思われても、口に出してくる人はほとんどいない。
(まぁしかし、このように人の目を極端に気にしてしまう人は人生のどこかで人に指摘されたことがあったり、もしくは自分に近しい人が指摘されてるのを目撃された経験があるとは思う)
人間、思っているより他人に興味がないのだ。
いや、自分の人生に深く関わってこない他人のことなんかに構ってる暇もない。の方が正しいだろう。
他人に興味がないのだから、他人の目を気にする必要なんかない!!
そう思っている自分も確かにいるのだ。

だけど、そう思っている自分もいるのにも関わらず、僕は人の目を極端に気にし続けてしまう。
なぜなんだろうか。自分でもわからない。
何をしたら変わるのか。そもそも変わるべきなのか。
人の目を極端に気にしてしまう自分自身も丸ごと愛せたらいいが、そんな日が来る気配はない。
ならばやはり変わる必要があるのだろうか。変われるのだろうか。


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