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知るということ

一つ前の記事で、少し”知る”という行為に触れた。
すごく簡単に言うと、ネットやSNSが発達した現在、簡単に情報が手に入るようになり、簡単に知らないものを知れるようになった。
その結果、僕らは知らないものを簡単に知れるようになっただけでなく、何でもかんでも”知りたがる”ようになった。というのが、前の記事の簡単なまとめだ。
そしてこの記事では、”知る”という行為について、改めて考えてみたい。


知らないものを知るという行為は、必ず恐怖が伴う。
それは、その行為の先に何が潜んでいるか分からないからだ。
もしかしたら自分が傷つくかもしれない。もしかしたら自分が嫌な目に遭うかもしれない。もしかしたら自分の期待に沿うものではないかもしれない。
そんな不確定で、不正確なものと向き合い、捉えようとするのが、”知る”という作業なのだ。

だからこそ、知るという行為には時間がかかる。
物事は全て多面性を持つ。
だから、あるモノについて知ろうと思ったら、様々な角度からそれを見て、感じて、考える必要がある。
そうしなければ、僕らは本当の意味で、何かを知ることはできないだろう。
また、ふとした瞬間に、これまで見られなかった新しい側面が露わになることだって、そう珍しくもない。
だから僕らは何かを知る際、それと根気強く向き合い続ける必要がある。
だからこそ、知るという行為には時間がかかるのだ。

このように、知るという行為にはただでさえ体力を使う。
知るという行為は疲れるのだ。
だからこそ、僕らはハズレを引きたくない。
何かを知った先に、自分が嫌な思いをするものがあるのは避けたい。
だからこそ、僕らはなんでも”知りたがる”ようになった。
本来の知るという行為をする前に、予めある程度の情報に触れておくことで、なるべくハズレを避けれるようにしていったのだ。

映画などのなんかしらの作品見る前も、旅や観光をする前も、外食する際も事前に評価や口コミを見たりして、事前に情報に触れていく。
誰か人と知り合う時も、その人のSNSを事前に見たり、共通の知り合いにどんな人か聞いたりする。
何かを知る際に、予め情報に触れ、それをある程度知った状態で、自分の中で精査してから、本来の知るという行為に移るのだ。
だが、この精査という行為をする際、僕たちはネットやSNS、人伝の情報を通して、知った気でいるだけだ。
それらを通じて得られる情報は、切り取られた一つの側面でしかない。
先ほども言ったように、物事はなんでも多面性を持っており、なおかつ状況に依存する。


例えば、1つの飲食店をとってみても、その日の天気、気温、誰といくか、飲食店に行く前に何をしていたか、何時に行ったか、混み具合はどれぐらいか、どの席に座ったか、店員さんが何人いるか、売り切れの商品はないか…など、どれか一つでも変わるだけで、その店に対する印象や感想も変わってしまう。
どんな物事も、人も、多面的で状況依存的。
だからこそ僕らは、切り取られたある側面だけを見て、知った気でいるのではなく、正面から向き合って、時間をかけて物事を捉えていく。
それこそが本当の意味での”知る”という行為ではないのだろうか。

知った気でいないこと。
ちゃんと自分自身で、正面から向き合うこと。
それを大切に、僕は色んなものを知っていきたい。


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