雲と人間
大学生になったくらいから、なぜだか雲を見るのが好きになった。
僕らの頭上を四六時中ゆらゆらと浮遊する雲。
今までもずっとその存在自体は認識してたし、嫌でも視線に入ってくる。
そんな雲を、しっかり見るようになった。
雲がどんな形をしているか、どんな色をしているか、どんな風に空に広がっているかに注目して見るようになった。
雲は毎日、その様相を変えて僕らの元へやってくる。
姿、形、大きさ、厚さ、濃さ…どれをとっても同じ雲はない。
だけど、世界中のどこから見ても、それを雲だって認識できる。
なんだか不思議な気もしてきた。
僕らは何を持って空に浮かぶ白いナニカを雲だと判断してるのだろう。
白いからだろうか。
空に浮いてるからだろうか。
雲を雲たらしめてるのは何なんだろう。
とか色々考え出した。
雲について色々考えるうちに、雲と似たようなものが、僕らのすぐそばにあることに気づいた。
それは僕ら自身、つまり人間だ。
この世界のどこへ行っても、雲が見られるように、
この世界のどこに行っても、人はいるだろう。
違いばかりの雲のように、
僕ら人間も、それぞれ違いばかりだ。
まるっきり同じ雲がないように、まるっきり同じ人間はいない。
だけど僕らは、お互いを見て、自分を見て、それを人間だと認識できる。
僕らは相手の何を見て人間だと認識するのだろう。
手足があること?
でも、世界には手足がない人だっている。
二足歩行すること?
でも、世界には二足歩行できない人もいる。
言葉を話せること?
でも、世界には口が聞けない人もいる。
人間を人間たらしめるもの。僕らの目の前に立つナニカが人間であると分からせるものは何なのだろう。
その答えは、僕にはまだ出せない。
だが、一つわかる事がある。
僕らはなんとなくで判断してるってことだ。
空に浮かぶあの白い物体は、多分雲で、
目の前に立っているこの何かは多分人間だ。
そのぐらいの認識で、僕らは生きてる。
自分の目に写っているモノが、実際どんな姿形をしていて、どんな性格をしていてるのかだとか、その具体性にほとんど注目せずに生きてる。
それが勿体無いと、僕は思ってきたのかもしれない。
だからこそ大学生に入ってから、雲をしっかり見るようになってきたのかもしれない。
高校生の時は、何だか余裕がなかった。
余裕がないと、雲なんてちゃんと見ることないと思う。
そして、それは目の前に人間に対しても同じだ。
余裕がなかったら、その人とちゃんと向き合おうとしない。
自分がなんとなく認識してる、人間像だけで、対面し、相手を傷つけてしまう。そんなことが多くあると思う。
ちゃんと目の前にあるものと向き合うこと。
目の前のものと対話して、それを知ろうとすること。
それを繰り返していく先に、そのモノの”核”がわかっていく。
それが先ほど述べた問いの答えになるのだろう。
しかし、問いの答えはきっと一つじゃない。
前も言ったように、世界にあるものは複雑でカオス的で、ぐちゃぐちゃになっているからだ。
そのぐちゃぐちゃをどう捉えるか。
それは、その答えを出そうとする人によって変わるだろうし、その人が置かれてる環境や状況に依存するだろう。
この前友人と歩いていた時に、空に大きな雲があった。
それを2人見つめながら、僕が「魚みたいだね」と呟くと、友人は「そう?寝っ転がってるおじさんに見える」といった。
答えは一つじゃない、無数にある。
だからこの世界は面白い。
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