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茶色い目(2)

「二人行けど 行き過ぎがたき秋山を いかにか君が ひとり越ゆらむ
                       万葉集巻二 大伯皇女」
黒板にそう書いて振り返った楢崎(ならさき)と目が合ったとき、私は前歯をぐっとかみしめた。
不覚だった。
絶対にあってはならない。男子に涙を見られるなんて。
他の誰にも気づかれてはいないはずだ。教師は教室の一番後ろにいたし、その時黒板に背を向けていたのは楢崎だけだったから。
でも私は楢崎を憎んだ。
ただそこにいただけで、教壇に手をついて、ふと顔を上げて私と目が合っただけで、私は彼を憎んだ。
一つだけ幸運だったのは、楢崎は誰にも私が泣いていたとしゃべったりしない、とわかっていることだった。
授業が終ると私は、毎日しているようにまっすぐ部室には向かわずに、一人で校門を出ていく楢崎の後をつけた。楢崎はいつも一人だ。だが校門から最寄駅までの道は、常に下校する生徒がいっぱいで、誰にも見られずに話しかけるのはむずかしい。楢崎の家がどこなのか、電車に乗るのかどうかも知らないが、とにかくまわりに人がいなくなるところまで追いかけなければならない。
楢崎は背が高い。175cm近くあるだろうか。教室の中ではまるで長身を恥じるようにいつも猫背で、クモのように長い手足をできるだけ目立たないように小さく折りたたんでいる。だが彼は下校の時には何かから解き放たれたようにその長い手足をまっすぐにのばし、バッキンガム宮殿の近衛兵が行進するときのように勢いよく進んでいくのだと、私は今日初めて知った。校門の前の長い坂を、楢崎は猛スピードで上っていく。まるで学校から一秒でも早く、一歩でも遠く離れてしまいたいとでもいうように。
「早っ」
私が歩いて追いつくにはたぶん楢崎の一歩に対して二歩から三歩の割合で進まなければならない。何度自分の身長を呪ったことだろう。精一杯手足をのばしても、あと数センチでパックに届かないときなどは特に。
本当は、陸トレで鍛えた脚力をもってすれば、走って追いつくのは訳もない。でもそれでは目立ちすぎる。誰にも知られずに、それでも一言だけ、言っておきたいことがあった。
 駅前通りに通じる道のすぐ手前にある、公団アパートが何棟も並んで建っている区画まで来ると、楢崎はふいに直角にターンしてそちらへ曲がり、建物の影になってあっという間に見えなくなった。あわててダッシュをして、楢崎の学生服の背中が公団アパートのどれも同じに見える古びた建物の一つにするりと飲み込まれるのを何とか見逃さずにすんだ。
 ところどころ錆びついた郵便受けで確かめると、楢崎の家は二階だった。階段を上がると二階には向かい合わせで二つのえんじ色のドアがあり、その一つに「楢崎」と手書きの表札が出ていた。呼び鈴を押しても、予想通り返事はない。もう一回、それから少し間をおいてまた一回押したが、相変わらず反応がない。急に腹が立ってきて、ドアをこぶしで二、三回、かなり乱暴にノックしたところへ、「あのう」と背後からふいに声がしたので、文字通り飛び上がった。振り返るとすぐ後ろに女の人が立っている。楢崎によく似た顔立ちをして同じように背が高いところをみると、楢崎のお母さんに間違いなさそうだ。だが楢崎と違って華やかな雰囲気があり、パーマをかけた髪が肩に揺れている。手には小さなバッグとスーパーのレジ袋をぶらさげていた。
「うちに何か御用ですか?」
「あ、あ、あの」
 予想外の事態にパニックを起こしている私の制服に目を走らせた女の人は「ユズルのお友達?」と言った。楢崎の下の名前を、初めて聞いたような気がする。
「ああ、ええと、その、クラスメートです」
そういうと、女の人の顔に笑みが広がった。
「いらっしゃい。ありがとう、来てくれて」
ドアを開けて「どうぞ」ととうながされた。とまどう私の背中を押すようにして自分も後から入り、大声で「ただいま」と言いながら玄関を上がって奥へ入って行った。玄関と廊下の間には一応仕切りがあるが、すだれのようなものなので透かせば廊下とその奥の台所が丸見えだ。私は玄関に立ったままどうしていいのかわからずかたまっていた。
廊下の右側に二つ並んだドアのうち手前の一つが開き、トイレの水を流す音がした。トイレから出てきた楢崎は玄関にいる私には気づかず、元気よく「お帰り」と言いながら、奥の台所のほうへ行く。耳を疑った。楢崎は学校では話さないし、声を出すこともない。先生は楢崎について、耳も聞こえるし、家では家族とは不自由なく話すこともできるが、学校では話せないのだと説明した。授業や学校での活動には特に支障はないので、みんなも普通に接してください、とのことだった。
 高一、高二と同じクラスで過ごしてきて、確かに話さなくても、特に学業面ではほとんど何の障害にもならないのだとわかった。試験やレポートは書くだけだし、あてられたら答えを黒板に書けばいい。発表はあらかじめ文章にしたものをコピーして配ったり、先生が代読したりした。実験や総合学習の班行動ではそれなりに役割を果たしていたし、成績はむしろ良いほうだ。
 でもやはり友達はいないようだった。うちのクラスには気のいい奴が多いから、自分から進んで行動すればどこかのグループの輪には入れるはずだけど、だからといって積極的に近づいてこない相手に気をつかって声をかけるほど高校生男子はおせっかいでも暇でもない。
楢崎はいつも自分の席で、背中を丸めて本を読んでいた。たまに話しかけられると緊張した顔つきで顔を紅潮させ、目を細めて相手を見つめる。そしてうなずいたり首を横に振ったりして意思表示をするだけだ。
だから私が彼の声を聞くのは初めてで、頭では知っていても、本当に普通に話せるんだ、という事実を目の当たりにするとある意味ショックだった。楢崎の声は、私が何となく彼に抱いていた弱々しいイメージよりもずっと生き生きとしてしっかりしていた。
「ただいま。どうだった? 古文の発表は」
 お母さんの声がする。
「ああ、大丈夫、うまくいった」
少し興奮したようなうれしそうな口調で楢崎は答え、それから「腹減った。なんかある?」と言った。
「ん、ちょっと待っててね。あ、そうだ。玄関にお友達が来てるよ」
まるでたった今まで忘れていたとでも言うようにお母さんが言い、それからしばらく沈黙があった。
「どうして……」
と言いかけた声は途切れて消えた。やがて楢崎がのろのろと玄関に出てきて、私を見ると驚いた顔をした。
「ごめん。うちまで押しかけて。でも、言いたいことがあって」
 学校からここまで私を駆り立てていた理由のわからない激しい衝動は、楢崎の声を初めて聞いて、すっかりしぼんで消えかけていた。何を言おうとしていたのかもあやふやになり、私は考えをまとめるために一回大きく深呼吸した。
「さっきのことだけど」
 自分の声が違う誰かのもののように上ずって聞こえた。
「古文の時間の。あれ、違うから。その……弟を思い出してとか、そういうのじゃないから。誤解しないで」
 楢崎は黙っていた。そしてアーモンド形の大きな目で、不審者でも見るように迷惑そうに私を見ていた。その目つきを見て、改めて言いようのない苛立ちが湧き起ってきた。楢崎にというよりは自分自身に対する苛立ちだった。何でわざわざ言い訳なんかしにきたんだろう。よく考えてみたら、クラスの男子にどう思われようと、気にする必要なんかまったくないのに。
「じゃあ、それだけだから」
 そう言って回れ右をし、玄関ドアのノブに手をかけたが、後ろから声をかけられた。
「あの、ちょっと待って」
楢崎のお母さんが、息子の後ろに立っていた。少し悲しそうな顔をしていた。私はまだ名前を名乗ってもいなかったのを思い出し、自分がひどく無作法なふるまいをしていることに気がついて恥ずかしくなった。
「ごめんなさい。私、楢崎くんと同じクラスの、高原さくやです」
というと、楢崎のお母さんは小さく、「えっ」と言った。
「あの、高原あつきくんの、ごきょうだい?」
「姉です」
 お母さんは改まった顔になった。
「弟さんのことは、あの……」
「ああ、いいですいいです」
 私は「お気の毒です」というお決まりの反応をさえぎろうとして片手をふりかけた。でもお母さんの目から急に涙がこぼれてきたので、手を下ろした。
「ごめんなさいね。でもうちに遊びに来てくれたのは、高原くんだけだったから」
「遊びに来る?」
 びっくりして聞き返し、楢崎の顔を見ると、黙って目をそらした。弟が楢崎の家に行ったというのは初耳だった。
「ここで話もなんだから、よかったら上がって」
 涙を見て断れなくなり、仕方なくうなずいた。
 奇妙なお茶の時間だった。
 玄関を上がってすぐの、狭いダイニングキッチンのテーブルを、楢崎のお母さんと楢崎、そして私が囲んですわった。楢崎は一言も発さず不機嫌そうにお菓子を食べている。
楢崎のお母さんはおしゃべりで、彼氏はいないの、男子アイホ部のあのかっこいいキャプテンは名前なんて言うの、などと愛想よく話しかけてくるが、楢崎が私の存在を全身で拒絶しているのが感じられ、ひどく居心地が悪い。
「あのう、弟はよくこちらにお邪魔してたんですか?」
「よくっていうほどじゃないわね。二回か、三回くらいかな」
「でもどうして、弟は楢崎くんと知り合いになったんでしょう。学年が違うのに」
「だって、地学部で一緒だったから」
「チガクブ?」
 カタカナ四文字で脳裡に現れたその単語は、記憶のどこか彼方で微かに瞬いている。
 ――今日チガクブの野外活動でさ
 という弟の声を、そういえば何度か聞いたことがあるような気がした。「えーっ、あんたチガクブなんて入ってんの、暗いね」という私自身の声も。だがそれが楢崎と結びついていたとは思いも寄らなかった。
「あの生物・地学の地学部?」
「そうよ」
「楢崎くん、地学部だったんだ……」
 楢崎が部活をやっているのも意外だった。
「部長なのよ」
 楢崎のお母さんは息子の顔を見ながら得意げに言った。楢崎は嫌そうにそっぽを向いている。あつきも、お母さんが友だちや親戚の前でほめると、同じように嫌な顔をしていたなと思い出し、おかしくなった。
「まあ部員は高原くん一人だったけどね」
「え? じゃあ、今は部長一人?」
「そうなんじゃないかな」 
「それは……」
 と言いかけて、言葉に詰まった。残念とか気の毒とかごめんなさいとか、いくつかの言葉が頭に浮かんだが、どれもこの場にふさわしくないような気もした。それで仕方なく小さい声で「淋しいですね」と言ったけど、お母さんもどう答えたらいいのか困ったようで、しばし沈黙のときが流れた。
どうにかしなくちゃいけないと思い、あわてて付け足した。
「地学部って、どんな活動をしてるんですか?」
「え? さあ」
 お母さんは困った顔をした。
「ごめんなさいね。私もよく知らなくて。日曜日にどこかに行ってるみたいなんだけど」
「いえ、いいんです」
 言ってから、さっきからずっと疑問に思っていたことを口に出した。
「あのう、楢崎くんは、弟とは話をしてたんでしょうか」
そう言ってから、これは楢崎に直接聞くべき質問だと思い直し、楢崎の顔を見た。楢崎はほんの一瞬私を見てから、うつむいて微かにうなずいた。
 楢崎は、あつきとは話をしていた。
ただそれだけのことなのに、得体の知れない黒いもやもやとした感情が、胸の奥から湧いてくる。楢崎に対してか、あつきに対してか、それとも両方なのか。
「楢崎くんは、家なら誰とでも話すっていうわけじゃないんですね?」
 本人の前でこういう話をしていいものかどうか、たぶんしてはいけないのだろうと思った。でも、どうしても聞かずにいられなかった。
「そうねえ」
「その、誰とは話が出来て、誰とは出来ないっていう違いは、どこにあるんですか?」
 失礼な質問だとわかっていたけれど、口をついて出てきた。楢崎は教室にいる時のように背中を丸め、じっとうつむいている。
「そうねえ」
お母さんはゆっくりと言った。
「それがわかれば、ねえ」
 
 階段の下まで降りたところで、楢崎のお母さんが追いついてきた。
「ごめんなさいね。お引止めしちゃって」 
「いいえ。こちらこそ、ごちそうさまでした」
「あの、ちょっと聞きたいことがあって」
「はい」
「あのね、あの子、学校でちゃんとやってるかしら?」
「え?」
 お母さんは笑い出した。
「やあね、私、なんだか小学生の子供の話をしているみたい」
「いいえ」
 私は学校でいつも一人ぼっちの楢崎の様子を思い浮かべた。
「わかります。私がお母さんなら、きっと心配だと思います」
そう言うと、楢崎のお母さんは一瞬黙りこみ、それから思い切ったように言った。
「あの子ね、中学のときは少し、話をしていたのよ」
「そうなんですか?」
「中学の先生はとても理解があって、同級生や部活の子たちも協力してくれて、教室でも声が出るようになっていたの。SNSのメッセージやメールではふつうにコミュニケーションをとれる相手もいて、でも」
「でも?」
「卒業したら、みんな忙しくて疎遠になってしまったの。高校ではSNSでつながる相手もいなくて。高原くんだけが……」
 言いかけて、気まずそうに言葉を切った。
 私は黙っていた。何か言うべきなのだろうと思った。何か親切なこと、何か私にできることがあったらとか、そういうようなことを。あつきなら間違いなくそうしているだろう。弟はそういう子だった。でも私はあつきじゃない。優しくもないし、いい人でもない。
私はただお辞儀をし、さっき来た道を学校に向かって戻り始めた。

(つづく)


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