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茶色い目(1)

パックは私のゴールキーパー用ヘルメットの、わずか数センチ右をかすめてゴールネットに突き刺さった。直径約7.6センチの硬質ゴム製のパックは、たとえ女子の競技でもシュート時には時速80キロを超えることもあり、直接体に当れば大ケガをする。止めるどころかよけることすらできなかったのは、確かに私の失態だ。
鈴江姉さんがこっちに向かってすごい勢いで滑ってくる。アイスホッケー的に表現するなら――走ってくる。
紅白に分かれた試合形式の練習で、相手方のゴールを守っている田代鈴江(たしろすずえ)姉さんは、江北ホワイトウィングスの正ゴーリーにして守護神。チーム最年長なので、メンバーはみな「姉さん」と呼ぶ。若手の多いチームにとって頼りになる先輩であり、同時に何より恐い鬼でもある。ただでさえ一七八センチと長身な鈴江姉さんは、プロテクターや両足のレガースなどのキーパー用防具で武装すると、更に巨大に見える。一五三センチの私は頭上から落ちてくるカミナリを覚悟した。
だが、カミナリは落ちず、その代わりに姉さんは無言でゴーリースティックを氷の上に投げ出し、あいた右手のグローブで私の左肩をどん、と突いた。思ったよりも強い力でゴールクリーズから押し出され、私はバランスを失って尻もちをつく。
わけがわからないまま見上げると、目の前に姉さんが仁王立ちになっていた。北米プロアイスホッケー・リーグ、通称NHLの伝説のゴーリー、パトリック・ロワと同じ33の背番号をつけた鈴江姉さんは、顔面を保護するためにヘルメットに装着された格子状のワイヤーネットのすきまから、少し目尻の上がった二つの目で冷たく私を見下ろしている。
「出てって」
 姉さんは感情のこもらない声で言った。
「すみません、大丈夫です」
 あわててゴールに戻ろうとすると姉さんが壁のように前に立ちはだかった。
「聞こえなかった? すぐにリンクから出てって」
 凛としたその声は、スケートリンクの冷気の中にさえざえと響き渡る。ちらばっていたチームメートがゴールまわりに集まってくる。
「すみません! ちゃんとやります。やらせてください!」
 頭を下げた私の言葉をさえぎって、姉さんは手で出口のほうを指し示した。
「迷惑なの。ホッケーする気のない人に、ここにいて欲しくない。邪魔」
「姉さん、それはちょっと言いすぎじゃないですか。さくやは……」
 キャプテンでディフェンスの大学生・浦木さんが割って入ろうとしたが、「黙ってて」と一蹴された。
「泣きたいならどこかよそで泣いてきて。ここには来ないで」
「私、もう全然大丈夫です。ほんとに、平気なんです。やらせてください。お願いします」
「あのね、さっきからずっと見てたんだよ、私は」
鈴江姉さんはうんざりしたように言った。
「ぼやっとして怪我するのはあんたの勝手だけど、怪我させるほうの身にもなってみな」
 そしてもう用はないとばかり私に背中を向け、スティックを拾って自ゴールに戻りながら、ベンチに向かって声をかける。
「ビバちゃん」
 と、張り詰めたやりとりに恐れをなしてベンチに縮こまっていた、ジュニアチームを卒業して入会してきたばかりの12歳、中1のゴーリーをあだ名で呼んだ。
「あっち守って」
 まだ子供っぽい顔つきをしたビバちゃんはびっくりして目をぱちくりさせていたが、ベンチの仲間にうながされてリンクに出てくる。あまりあわてたので氷に下りるときにドテッと一転びして、ベンチの笑いを誘った。
それを見て、そばにいたチームメートも、私を残してフェイスオフスポットへ戻っていく。
うなだれてベンチに向かう私の視線と、私が守っていたゴールへ向かうビバちゃんの視線が、すれ違うときに一瞬交わった。
申し訳なさそうな表情のすぐ下に、勝気さやチャンスをつかんだうれしさが露骨に見てとれた。
ロッカールームに戻ったとたん、目の前が暗くなるほどの激しい怒りがこみ上げてきた。私はヘルメットを投げ捨て、大声を上げてベンチを蹴った。

「ねえ、やっぱりカラコンにしていい?」
洗面所の鏡に映った自分の顔を見ながら、台所でお弁当を作っているお母さんに言ってみる。
「どうして?」
 というその言い方で、理由を聞きたいのではなく、理由が何であれ賛成できないのだというお母さんの意思が伝わってきた。
「でも、前はお母さん、いいって言ってたじゃない」
私の目は生まれつき黒目の部分の色素が薄くて茶色に見える。わかっている限りで先祖に外国人はいないようだし、両親とも黒目は真っ黒だが、母方の祖母がやはりそういう目をしているから、隔世遺伝らしい。
髪の毛の色も茶色っぽいので、一年半前、高校に入学してすぐ上級生に目をつけられて呼び出された。それを知って「やっぱりカラーコンタクトにした方がいいかしら」と言ったのはお母さんだった。その時は金額的なことと、「視力がいいのにコンタクトをするのは目によくないんじゃないか?」というお父さんの一言で却下になったのだ。
「何で今さら? あんたの目のことなんて、みんなもうわかってるでしょ。それとも誰かに何か言われたの?」
「そうじゃないけど」
 洗面所を出て、いそがしくお弁当箱におかずをつめているお母さんの後ろを通り、キッチンを抜けてリビングの仏壇の前にすわる。
 アイスホッケー部のユニフォームを着て、少し顔を斜めに傾け、人なつっこい満面の笑みでピースサインをしているモノクロ写真の中のあつきに向かって、やっぱりだめだってさ、とこぼす。写真ではわからないが年子の弟も、私と同じ色の目をしていた。
 「行って来るね」と手を合わせ、ダイニングに行くと、食卓の上にふたをずらしたお弁当箱がおいてあった。鮭に卵焼き、ブロッコリーにプチトマト、それから海苔だんだんのごはん。お母さんはもう以前のようにごはんに海苔でパックの絵を描いたりはしない。教室でふたを開け、「げっ、かんべんしてよ」とため息をつくあつきはもういないからだ。ふたを閉めて、赤いチェックのクロスで包み、ぎゅっと結ぶ。
「いってきます」とドアを開けようとすると、靴箱とドアの隙間に立てかけてあったあつきのゴーリースティックが倒れかかってきた。中学校の頃から使ってきたこのスティックと、亡くなった日の直前の誕生日に買ったばかりだった新しいスティックと、どちらをお棺に入れるかで最後まで迷った。結局、中学卒業の時、部活の仲間と交換した寄せ書きや、イベントで憧れの選手にもらったサインなどでにぎやかな、古いスティックを残すことにした。受け止めたスティックを、後ろからのびてきた母親の手に、振り向かないで渡した。(つづく)

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