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茶色い目(4・終わり)

のぼりがだんだんきつくなり、息が上がる。すぐそばを流れる川を、時には古くて頼りない木の橋で渡って、右に見たり左に見たりしながらさかのぼっていく。山が深くなるにつれ、下流で一つの大きな流れになっている川は、実際にはたくさんの源流が合わさってできているのだとわかってきた。両側にそびえる斜面のあちこちから流れ出す大小の源流が、岩や石を迂回して蛇行しながら、惜しげもなく清冽な水をほとばしらせていた。

ふと橋の上で立ち止まると、たくさんの水が岩や石にぶつかる音が、急に大音量で聞こえてきた。すると前からも後ろからも、360度あらゆる方向から絶えることなく流れ落ちてくる水が、まるで全部私に向かって押し寄せてくるような錯覚におちいった。足元の橋の下でも、急流が渦を巻いている。心細くなって楢崎の後ろ姿を探したけれど、私の歩くペースが落ちていたせいで間隔が開いてしまったらしく、目の届く範囲には見つからない。
ふいに激しい不安と恐怖におそわれ、その場にしゃがみこんだ。
恐怖感に耐えながら目をつぶってじっとしていると、最初は巨大な混沌としか感じられなかった様々な水音は、それぞれの個性を保ちながらも一定の方向性を持っているのがわかってきた。小さい流れも、大きい流れも、ゆるやかな音も、激しい音も、みな確かに一つの方向を目指している。
意識を集中した。するとからまった糸のように乱れていた自分の心が、ごく細い一筋の流れになって、ある一点に向かってゆっくり、本当にゆっくりと動き出すのを感じた。体がしびれるほどの恐怖感が、だんだんと薄らいでゆく。
ほっとして目を開くと、楢崎が少し先の上り坂に立って、心配そうに私を見つめていた。目が合うとあわてたように視線をそらし、また前を向いて歩き始める。今度こそ緑色のリュックを見失わないよう、私は急いで立ち上がって後を追う。

目の前に湿地帯が広がっていた。そこだけ木々が刈り取られたようになっていて陽が真上から明るく差し込み、落ち葉が一面に積もった地面のところどころに、透き通った水をたたえたいくつかの小さな水たまりがあった。
先を歩いていた楢崎が急に足を止め、すぐそばの小さな水たまりの脇にしゃがみこんだ。
よくわからないまま私もその横にしゃがむ。
水が澄んでいるので、真昼の太陽の光が直接水底に届き、そこにある白や黄色や赤や、様々な色の石たちを照らし出して、石そのものが輝きを放っているようだった。
楢崎は手をのばし、水に差し入れた。そして私を見て何か言いたそうに少し口を動かした。でも、声は出てこない。
「何?」  
 言いながら水面に目を凝らした。よく見ると底のほうから、小さな気泡がいくつも浮かんでくる。
「これ? 湧いてる?」
 はっとして、私は言った。
 楢崎はうなずく。
「湧水? これが水源?」
 また、うなずく。
 ――俺、今日、川の水源を見たんだぜ
 ふいにあつきの声が耳によみがえる。テレビを見ながら上の空で聞いていた、弟の声。
 ――姉ちゃんも見たらびっくりするよ。ほんとにちっちゃな水たまりなんだ
「これだったんだ」
 ――ぽこっ、ぽこって。湧いてるんだよ。あっちこっちで。あれちょっと感動するぜ
 落ち葉ですべらないように池のふちにひざをつき、手をそっと水に入れると、その先に微かに感じられる。地面の下から生まれてくる、小さい、でも確かな衝動が、指先をリズミカルに押し上げてくる。
「生きてるね」
 心の中からあふれ出すように、口から言葉が出ていた。
「生きてる」
 そう言って楢崎を見ると、彼は目を細め、初めてほんの少し口元を緩めた。それを見たとたん、私は気づいた。
 私と楢崎は、ずっと、話をしていた。
 黙ってずっと、話していた。
 たぶんあつきも、楢崎と本当に言葉を交わしていたわけではないのだろう。だけど、あつきもきっと、楢崎と話をしていた。
「生まれてくる」
 冷たい水に浸した指先が次第にしびれてくるのを感じながら、私は言った。
「川はここから生まれてくるんだね。それであつきは――」
 ここに帰る。そういうつもりだったけれど、声にはならなかった。
 楢崎は少し目を上げて、木立の向こうのどこか遠くを見ていた。
 
 帰り道の途中、さっきコーヒーをくれた二人組が上ってくるのに出会った。挨拶するために立ち止まると、最初に声をかけてきたほうの男性が私を見て言った。
「ほうら、やっぱりべっこうあめだ」
「え?」
「そうかなあ」
 もう一人の、コーヒーをくれたほうの男性が、無遠慮に私の顔をのぞきこむ。
「こはくじゃないかなあ」
 そして二人とも、自分に味方してほしそうに楢崎を見る。楢崎は困ったように首を傾げた。
 私の目のことを言っているのだと気づいた。
「いや、失礼。君の目のことをね。さっきからふたりで話していたんだよ。何の色だったかなって。とってもきれいな色だから、ついね」
 ほうら、やっぱりべっこうあめだ。
 そうかなあ、こはくじゃないかなあ。
二人と別れて山を下りながらも、そののんびりした、でも調子のよいやりとりが、短い詩のようになんだかずっと耳に残っていた。
「ねえ、楢崎」
 元気に前を行くくすんだ緑色のリュックに向かって初めて、クラスのほかの男子にするように呼び捨てしてみた。
 楢崎は立ち止まって振り返り、少し目を細めてけげんそうに私を見た。
「楢崎はさ、べっこうあめは好き?」
 一瞬、楢崎の表情がかたまる。眉間にしわを寄せ、探るような目つきになる。
 急に、何としても楢崎を困らせてやりたいという衝動に逆らえなくなった。
「あのさあ、私も地学部、入ろうかな」
 楢崎は目を丸くした。私はそのちょっと間抜けな顔に向かって舌を出し、突っ立ったままの楢崎の脇をするりと抜けて、落ち葉ですべる山道を、勇敢な兵士のように踏みしめながらどしどし前へ進んでいった。 

(了)

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