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長編連載小説 Huggers(4)

204号室では、本当は何が起こったのか?


 沢渡が職場である長谷川不動産の店舗に顔を出したのは、午後8時過ぎだった。
 社長には午後2時ごろ、辻のアパートを出てすぐに電話で簡単な報告をすませてあったので、休日でもあり、本当は職場に寄る気はなかった。

 しかし駅前の駐輪場に止めてあった自転車をとばして店のそばを通ったとき、とっくに消えていると思った電気がまだついているのに軽い驚きを覚えた。
 ガラス扉を引いて店に入ると、白いカバーのかかった年代物のソファにすわって、末の息子の相手をしていた社長が肩越しに振り返った。
「あ、沢ちゃん」
 社長の長谷川は沢渡の顔を見るとほっと安堵の表情を浮かべた。
「まだ、閉めてなかったんですか。何かあったんですか?」
 そう言ってから、ふと嫌な予感が胸を過ぎった。
「例の賃借人さんが何か言ってきました?」
「いや、そっちじゃなくて、辻さんの方なんだけど。夕方電話してきて、沢ちゃんが例の賃借人さんの部屋から出てきた時、何だか顔が真っ青で様子がおかしかったって言ってたから」
「そんなことありませんよ」
沢渡は平静を装いながら答えた。
「辻さん、見てたんなら、声かけてくれればよかったのに。僕、明日行ってきます」
「いいよ別に、何もなかったんなら。僕から電話しとくから」
ソファによじ登った小さな息子から怪獣の人形で攻撃されるのを手でよけながら、長谷川は言った。
「それより何度か携帯に電話しちゃった。自宅にも。履歴に残ってると思う。ごめん」
「あっ、すいません」
 沢渡は急いで携帯を取り出した。着信履歴に長谷川の番号が並んでいる。
「申し訳ありませんでした。携帯を見てなくて」
「いいよ別に、休みの日なんだから謝ることないよ。僕が勝手に心配してただけだから」
 長谷川は息子をソファから下ろして、一つ大きくのびをしてから立ち上がり、「お茶いれるけど、飲む?」と言った。
「えっ、ああいいですよ、社長。僕すぐ帰りますから」
「そう?」
 長谷川は言ったが、流しに立って湯のみ茶碗を二つ出した。急須にお茶の葉を入れて、ポットの湯を注ぐその背中を立ったままぼんやり見ていると、寒くもないのに突然寒気がして、思わず肩をすくめるようにした。子供は手に人形を持ったまま、何かぶつぶつつぶやきながらソファテーブルのまわりをぐるぐる回っている。
「違ったらごめん。もしかして、今日、奥さん探してた?」
 沢渡に背中を向けたまま長谷川がたずねた。
「はい。何か手がかりになることはないかと思って、実家に行ってきました」
 店内を見回しながら沢渡は答え、その答えた声がどこか他人の声のようだなと思う。
「そう。で、どうだったの?」
「やはりお義母さんにもまだあれきり、連絡ないみたいです」
「余計なおせっかいだと思うけど、もし何か俺にできることがあったら、何でもいってよ。うちの嫁さんもすごく心配してるから」
 その声に混じりけのない思いやりが込められているのを感じ、沢渡は湯のみにお茶を注ぎ分ける長谷川の手元を少し困惑しながら見つめた。
 会社が小さいこともあってふだんから社員に対してフランクに接する社長だったが、プライベートに立ち入ることは滅多にない。
 詩帆の失踪の件は、今の長谷川の妻と詩帆が時々ランチをする仲だったので打ち明けざるを得なかったが、そのときも長谷川は黙ってうなずいただけで、その後も詩帆の件については一切触れてきたことはなかった。
「ありがとうございます」
 違和感を払拭するように軽く頭を振ってから、沢渡は言った。
「……社長、変えました? 電球の色」
「え?」 長谷川は驚いたように振り返り、天井を見上げる。
「いや、変えてないよ。どうして?」
「そうですか?」 沢渡は首をひねる。
「何も動かしてないですよね。模様替えとか」
「まさか」長谷川が笑う。
「休みの日にみんなに相談もせずにそんなことするわけないじゃない」
「そうですよね」
 いつもとどこか店の印象が違うのだが、何がどう違うのかわからなくて、沢渡は落ち着かない気持ちのままそこに立っていた。
「やっぱり変だよ、沢ちゃん。ちょっとすわったら」
 そう言いながら、長谷川がトレイにのせた湯のみを運んでくる。そこにはお茶と一緒に、ようかんのような菓子がのっている。
「よかったら食べてよ。きのうお客さんにもらったんだけど嫁はダイエット中だし、上の坊主どもはスナック菓子しか食べないんだ」
「いただきます」
 自分の席に座ろうとして、沢渡はふと動きを止めた。
 ここに、自分の分だけの空間がある。
 頭の中に浮かんだその奇妙な感覚が、一瞬だけ雲間からのぞいた月の光のように沢渡の全身を貫いた。
 椅子と机の間に空間があり、自分がそこに存在することを可能にしている。その当たり前のことをとても不思議に思い、同時に不安にも感じた。
「もしかしたら」
 西野裕子が帰り際につぶやいた言葉が脳裡に浮かんだ。
「何か変わったことがあなたに起こるかもしれません」
 あれはどういう意味だったのだろう。西野はほかに何か言っていなかっただろうか。必死で記憶をたぐりよせながら席にすわり、お茶に手をのばす。湯飲みを持つ手が震えて、水面が揺れる。透明な薄緑の液体の美しさや、不器用に切られたようかんギザギザの断面に、思わず涙ぐみそうになる。感覚が異常に鋭敏になっている。心と体が中表にされてしまったように無防備で心細い。
 西野の「ハグ」には本当に、何か特別な力があるのだろうか。薬物を摂取すると、感覚が極度に鋭くなるときいたことがある。「ハグ」にも同じような作用があるのかもしれない。
 何かが足先に触れて、沢渡は我に返った。視線を落とすと、長谷川の息子がスチール机の下にもぐって沢渡の足元にすわり、うれしくてたまらないように沢渡の顔を見上げて、人差し指を立てて自分の鼻と口に押し付けている。この子はやっと歩けるようになったころから店で遊んでいたせいか人見知りをしない。社員みんなになついていて、子供の扱いがよくわからず不器用な沢渡にもお構いなしにベタベタくっついてくる。その笑顔につりこまれて笑い、うなずいてみせてからハッと顔を上げると、正面に長谷川の顔があった。
「おい見つけたぞ将太、かくれんぼは終わりだ」
 長谷川が笑いながら言って、机の下から飛び出して逃げようとする子供をつかまえ、両手で高く抱き上げた。子供は「パパ、パパ」と喜んで足をバタバタさせた。そして片手を伸ばして長谷川の髪の毛を引っ張った。
「おいやめろ、こら痛いぞ」
「将太くんにかかっちゃ、社長もただのおもちゃですね」
「笑えばいいさ。俺は親バカだ」
 そう言った長谷川が脇の下をくすぐると、子供は大暴れして父親の腕をすり抜け、床に下りた。
「待て、将太」
追いかけられた子供は再び沢渡のほうへ逃げてきて、ぎこちなく広げた腕の中に、頭から突っ込んだ。
「おっと、危ない」
 ケガをさせてはいけないと思いしっかり両腕で抱きとめると、椅子の背にのけぞるような形になった。 
 ゆっくり体を起こすと、勢い余ってひざに乗り上げた子供の頭が、沢渡の顎のすぐ下にあった。
 少し茶色がかった、柔らかく波打つ髪が、汗ばんだ熱いうなじにはりついている。はぁはぁと息を切らして、小さな背中が上下する。
 子供のにおいがした。子供特有の甘くて酸っぱいにおいが沢渡の鼻腔を満たす。ぷっくりしたピンク色の指が、セーターの袖をぎゅっと握り、子供はそのまま無防備に体を預けてくる。 
 沢渡はあめ細工のような子供の髪にそっと顔を埋めた。
「おい、大丈夫か? 沢渡? どこか打ったか?」
「いえ、大丈夫です」
だがすぐには顔を上げることができなかった。
 そのやわらかくて温かくて小さいものがもぞもぞと体を動かすのを腕の中に感じながら、沢渡は最後に詩帆を抱きしめたときのことを思い出そうとした。
 だが、思い出すことができなかった。それはいつのまにか、義務とまではいかなくても、こなさなければならないルーティンワークになっていた。
 ちゃんと詩帆を抱きしめたのはいつのことだったのだろう。
 そもそも自分は今までの人生で、本当に人を抱きしめたことなどあっただろうか? 
 こんなふうに、においや感触、重み、存在のすべてをしっかり腕のなかに包み込んで。
 顔を上げてそっと目を開けると、子供の着ている赤いTシャツの背中に金色のアルファベットで書かれた「HUG ME」という文字が、わずかにぼやけた視界に飛びこんできた。(つづく)


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