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長編連載小説 Huggers(3)

不審な点のある入居者を訪ねた不動産会社の社員沢渡は、 初対面の彼女から衝撃的な提案をされる。

 沢渡は絶句した。
 西野は構わず続けた。
「体験していただけばわかります。逆に言うと、体験せずにいくら言葉で説明しても無駄です」
「ちょ、ちょっと待ってください。それはつまり、あなたとハグをするってことでしょうか」
 これは何かの冗談か、それともやはり宗教の勧誘だろうか、と思いながら沢渡は言った。
「そうなります」西野は即答した。
「それは困ります。私は不動産屋で、そういうサービスはしません」
 思わずそう言ってしまってから、変なことを口走ったなと思ったが、もう遅かった。
 西野は明らかに気分を害したようだった。
「不動産屋さん、私はあなたに個人的な興味はまったくありませんし、どのようなサービスも期待してはいません」
「申し訳ございません。そういうつもりじゃなく……」
 言いかけた沢渡の言葉にかぶせて、西野は冷たく続けた。
「ハグはただの手段に過ぎません」
「ですから、何のための手段か教えていただけませんか」
「言葉では説明できないといったでしょう。説明できるなら、とっくにしています。その方が私だって、ずっと楽ですから」
 沢渡は彼女の様子が、最初玄関で話していたときと変わっているのに気がついた。さっきは気の弱そうな女性だった。今目の前にいる西野は、急に何かが乗り移ったように高飛車な感じだった。
「あなたは大家さんに頼まれて、私が何をしているか調べにいらしたんでしょ。お教えしますよ。別に隠す必要はないので」
 沢渡は座布団からすべり下りた。
「わかりました。では明日、別の者を連れて改めてお伺いしますので、そのときに体験させていただくというのはいかがでしょうか。誤解を防ぐためにも、誰かに立ち会ってもらったほうがいいと思いますので」
「それはできません」
「どうしてですか」
「それは……」
 西野はしばらくの間、唇をかんで考えていた。それから唐突に「では、もういいです」
と言った。
「では言葉で説明していただけると?」
「いいえ。そのつもりはありません。私の話は終わりです。どうぞお帰りください」
 そう言って西野は立ち上がり、沢渡を促すように玄関のほうへ歩いていった。
「大家さんには何と?」
「どうとでもお好きなように。おまかせします」
 突然取り付く島もなくなった彼女の様子に戸惑いながら、沢渡はついていった。ひどく怒っているのが空気を通して伝わってきた。どのような理由であれ、辻のアパートの入居者を怒らせてしまったのはまずいと思った。
「あのう」
 沢渡は言った。
「ご気分を害されたようでしたら、申し訳ございません。でも、僕は結婚していますので。たとえ特別な意味がなくても、妻に誤解を受けるような行為はしたくないんです」
 西野さんは彼をじっと見たが、それ以上何も言わず、黙って靴べらを手渡した。そして彼が靴をはくのを上がり口に立って見ていた。
沢渡がドアを開けようとした時、独り言のように彼女は言った。
「配偶者がいてもハグを必要としている人はいますよ」
 沢渡は振り向いた。
「どういう意味です?」
「配偶者がいても、心が満たされていない人はたくさんいます。とてもたくさん」
 西野は無表情だった。だがそれがかえって、強い不快感を彼の胸に呼び起こした。気づくと言葉が勝手に口から飛び出していた。
「そうですか。あなたのハグとやらは、そういう淋しい人たちの心を満たすわけなんですね。ご苦労様なことです」
 西野は意味ありげな目をして黙っている。
「でも僕はそういう方たちとは違います。妻を大切に思っていますから」怒りを隠す努力も忘れて、沢渡は言った。
「あなたはそうでも。奥様はどうでしょう」
 沢渡の頭の中で、詩帆がホワイトボードを掲げて立っている。そのボードには「FREE HUGS」と書かれている。ハグし放題。
 ふいに前触れのない暗い憎悪の感情が胸に湧き起こって、体が震えた。
彼の仕事には家賃滞納者への督促も含まれる。たちの悪い滞納常習者に対しては多少強硬な態度をとらざるを得ない場合もある。長年やっていると、いわれのない恨みを買うこともまれではない。これも何かの、誰かの復讐なんだろうか。
「お客様だからといって、個人的に僕の家族を侮辱する権利はないはずです」
 無表情だった西野の顔に、ねっとりした微笑みが浮かんだ。
「ねえ、不動産屋さん。人って、どういうときに怒りを感じるか知ってますか?」
「……」
「本当のことを言われたときです。自分も知りたくなくて、気付かないふりをしていたことを指摘されたときです」
「……僕はあなたの脅しなんか、恐くありません。やましいことなどなにもありませんから」
「あなたが恐がっているのは、他人じゃありません。自分が本当はどんな人間か知るのが恐いんです」
「……」
「あなたが本当はどんな人か、教えてあげましょうか。ねえ、陽気で親切な不動産屋さん」
 詩帆が両手を広げて、男を胸に迎え入れる。
「黙れ」
 沢渡の中で、何かが音を立てて切れた。
 自分はどうなってもかまわないという気がした。詩帆はもういない。子供もいない。ほかに家族もいない。この女を痛めつけ、死ぬほど恐い思いをさせてやりたい。
「そんなに僕をハグしてみたいですか」
 彼は西野の両肩を手でつかんだ。
「じゃあ、してあげましょうか」
 そして、力任せに壁に押し付けた。ごん、という鈍い音がして、彼女の全身から力が抜け、ズルズルと壁を伝って床に倒れた。(つづく)


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