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短編小説 フォーマルハウト 4(全5回)

(同じマンションの住人・丘野と心温まる会話を交わし、ひととき心がなごんだ奈津子だが、家に帰ると現実が待っている)


夕飯の買い物をして家に帰ると、夫はソファで本を読んでいた。
「どこ行ってたの?」
「プラネタリウム。市民センターにあるでしょ」
朝、出るときは夫はまだ寝ていた。
彼はいつも「起こされるよりはほうっておいてもらったほうがいい」と言うので、お昼の心配などはしなくてすむ。
「そしたら、丘野さんに会っちゃって」
思いがけず夫のほうから話しかけてきたことが、そして自分の行き先に関心を抱いたらしいことがうれしくて、声がはずんだ。
「丘野さんて?」
「はら、405の人。理事会一緒にやった人だよ」
「ああ、あの人」夫はつまらなそうに言った。「さっき、君のお母さんから電話があった」
「えっ、ほんと?」
「君の携帯にかけるようにしてもらってくれないかな?」
「いつもそう言ってるんだけど」
戸惑いながら、奈津子は急いでバッグからスマートフォンを取り出す。
「ごめん、投影が始まるときに電源切ったんだった。そのままになってた」
「気を付けてくれる? 仕事以外でまで、気を遣いたくないんだ」
「ごめんね」
「いいけど」いらだった声で言ってから、夫はハッとしたように付け加える。「……ごめん」
そしてそのまま、手に持った本に視線を落とした。話の続きをしようと吸い込んだ息を、奈津子はそのまま吐いた。

寝室で母親に電話をかける。
祖母の介護の愚痴など、いつもの話をひと通り一方的にまくし立ててから、母親は言った。
「なっちゃんて、お休みの日、家にいたためしがないね。だんなさまほったらかしで遊び歩いて。あんたがそんなだから赤ちゃんだってなかなかできないんだよ」
「やめて、お母さん」
「あんただってもうすぐ35でしょ。あんまりのんびりもしてられないよ。そのために派遣もやめたんだし……」
母親の話には適当に相槌をうち、「これからは私の携帯にかけてね」と何度も念を押し、電話を切ってから少し泣いた。それから涙をふき、目が腫れているのをごまかすためにメガネをかけてリビングに行く。

夫はソファでうたたねをしていた。
無防備な寝顔を見ているときだけは、不思議に心が安らぐ。ほんの少し、唇が開いている。
白いTシャツの胸が規則的に上下している。
右手はソファから落ちかかって床についている。
左手はスマートフォンを握ったまま、左腰のあたりにのっていた。
着信音はサイレントにしてある。
夫は、ただぼうっと待受画面を眺めている時間が長い。
寝室から毛布をとってきて、そっと夫にかけた。
すぐそばにある夫の体を、果てしなく遠いものに感じた。

夕食の準備のためにキッチンに立ち、ふと時計を見ると夕方の5時半だった。
国際宇宙ステーションのことが頭に浮かんだ。
丘野と勇太は覚えているだろうか。
ベランダに出てみた。日はすでに落ちて空は暗くなりかけている。
曇りというほどではないが、ところどころ薄い雲に覆われていて、微かに光る物体を見つけるのはむずかしそうだった。
部屋に入ってベランダのガラス戸を閉めようとしたそのとき、なぜか「ステーション」「ほんもの」という勇太の細い声が耳によみがえった。細いけれど、真剣な声。
「パパと二人で見よう」と言った丘野の声も。
ふいに胸が強く締め付けられて、奈津子は急いでスマートフォンを手にとり、管理組合の理事会で作ったSNSのメッセージグループを開いた。
構成員から丘野のアカウントを探し、ダイレクトメッセージを入力する。
 
605号の山路です。今日はどうもありがとうございました。
さっき言っていた国際宇宙ステーションですが、5時45分から約5分間、南西の空です。曇っていて見えないかもしれませんが、よかったら勇太君に見せてあげてください。もしかしてお忘れではないかと思ったので。おせっかいで失礼しました。

夜の6時半を過ぎてから、インターフォンが鳴った。
カメラは暗いままで、表示を見るとエントランスではなく自室の玄関だった。
「はい?」と答えると、「405の丘野です」と返事があった。
急いで玄関のドアをあけると、丘野父子がニコニコして立っていた。
「あ、丘野さん」
「メッセージ、今見ました。ありがとうございました」
「あ、じゃあ、間に合わなかったかな」
「いえ、間に合いました。偶然思い出したんです。駅前に買い物にいく途中だったんですが、何の気なしに時計を見たらあのとき山路さんに教えてもらった時間だったんで、ちょうど間に合いました。……な?」丘野は同意を求めるように勇太の顔を見た。
「見られました?」
「それらしきものは。曇っていてよくわからなかったんですけど、二人であれだねってことにしました」丘野は笑い、それから息子の背中をつついた。
「ほら、勇太、あれ」
勇太を見ると、後ろ手になにか持っている。
「勇太がお姉さんにどうしてもあげたいっていうもんで」
「なにかな?」
子供はまるで怒っているような真剣な顔で片手を前に突き出した。見ると薄い油紙でできたちいさな袋を持っている。よほどしっかり握っていたのだろう、袋はクシャクシャになっていた。
「たい焼きです。お好きですか?」
「あ、駅前のたい焼き屋さんの。はい、大好きです」
「よかった。どうぞご主人と召し上がってください。2つ、入ってます」
「ありがとうね」
小さな手から受け取った袋はまだほかほかと温かい。そっと袋の口をあけると、ほわっとなつかしいにおいがした。
「わー、おいしそう。ごちそうさまです!」
手をつないで帰っていく幸せそうな父子の後ろ姿を見送っていると、なぜだか目の奥が熱くなった。

その夜、奈津子はけたたましいサイレンの音で目を覚ました。
枕元のデジタル時計を見ると、夜中の1時を回っている。

(つづく)




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